サッカー好きなら「英語のサッカーマガジン」を

ここまでお話ししてきたのは国語の例ですが、この発想はあらゆる教科に適用可能です。

苫野一徳『「学校」をつくり直す』(河出書房新社)

たとえば英語についても、みんながみんな同じ教材を使わなくたっていいでしょう。サッカー好きの子は英語のサッカーマガジンを教材にしたっていいかもしれませんし、ギター好きの子はギターマガジンを教材にしてもいいかもしれません。それぞれの子どもの興味・関心に応じた教材は、ネット上にも無数にあります。興味の持てない、つまらない文章を延々読まされるより、工夫次第でははるかに実りある学習ができるはずです。個別化の基本は、教材にしろペースにしろ、「選択できる」という点にあるのです。

ちなみに、意外に知られていないことなのですが、学校の先生には「教科書の使用義務」はありますが、それは教科書だけを使用しなければならないとか、教科書の中身を全部網羅的に教えなければならないとかいったことを意味してはいません。多様な教材の開発は、授業の工夫としてむしろ奨励されているのです。

テストを「一斉にする」必要はない

でもそんなことをしたら、一斉のテストなんてできないじゃないか。そう言われるかもしれません。

これにはこう問い返したいと思います。そもそも、わたしたちはなぜテストを一斉にする必要があるのでしょうか? さらに言えば、なぜ、一斉のテストで子どもたちを序列化する必要があるのでしょうか?

義務教育の一つの使命は、すべての子どもたちの「学力」を必ず保障することにあります。「学力」の本質は、哲学的に言えば「自由」になるための「探究する力」となりますが、ここでは話を分かりやすくするため、ひとまず学習指導要領の内容ということにしておきましょう。

原理的には、学校教育は小学校6年間を通して、あるいは義務教育9年間を通して、その内容の獲得を保障する必要があります。それはつまり、その水準の保障さえできれば、子どもたちを序列化する必要などまったくないということであり、また、その到達を保障するためにこそ、そこへ至るまでの学習計画や進度やテストなどは、個別化すべきであるということでもあります。