資源価格の乱高下に冷静に反応すべき理由
リーマンショックのグラフには、右半分(つまり09年第1四半期以降)がない。まだ現実のデータがないのである。それがどうなりそうか、このオイルショック時のグラフが一つのヒントを与えてくれそうだ。大幅落ち込みまでのパターンがよく似ているのである。もちろん、オイルショック時は高度成長の末期だから、成長率の水準自体は高い。しかし、大幅落ち込みまでの2年間近くのパターンについては、2つのグラフはよく似ている。
第一次オイルショックは、戦後の日本経済にとっておそらく最大のマイナス事件であった。73年10月に中東戦争が勃発してすぐにアラブ諸国が石油禁輸という行動に出た。それで世界の原油価格があっという間に1バレル2ドルから8ドルへと4倍以上跳ね上がったのである。
当時の日本は、安定して低価格を続けてきた石油に大きく依存した経済構造だった。たとえば、日本の鉄鋼業は73年まで臨海の大型製鉄所の技術的効率のよさと海外原料の輸送コストの安さを背景に快進撃を続けていた。しかし、鉄鋼生産プロセスも海外からの原料輸送も、エネルギー多消費型だった。それを原油価格の4倍上昇という巨大な価格変化が直撃した。日本の鉄鋼生産はそれまでの急成長のペースがうそのように、73年を境に一気に横ばいから微減のグラフに移行したのである。
原油は、世界の経済の最大の基礎物資である。その価格がオイルショックで4倍に跳ね上がれば、それはさまざまな物資・製品の国際的な価格体系の大変動を意味した。その劇変への日本経済の最初の反応が、多くの産業での大幅な減産であった。また、高くなったガソリン価格に対応しての自動車の使用の大幅減少であった。それらの「マイナス現象」が集約されて、GDPの前期比3.4%の減少(年率で13%を超えるマイナス)という経済統計が出てくるのである。
このときのマイナス現象はまた、それに至るプロセスでバブル現象があり、「ついつい」生産も消費も過大になっていたことへの反省と反動の減少でもあった。当時、田中内閣の日本列島改造論で日本中で土地バブルが起きていたのである。それが、73年第1四半期をピークとするグラフのコブである。