戦後を代表する人間を通して「昭和」を書く

自分が好きな書き手と仕事をすると、嫌なことの一つもいわなければならない時がある。原稿催促のために、きつい言葉を吐くこともある。そうならないためには、仕事を一緒にしない、相手の懐に入り込み過ぎない、適度な距離感を持って付き合うことが習い性になってしまっているのだろう。

だから私は、小説誌の編集者にはなれなかった。作家ととことん付き合い、懐に飛び込むという芸当ができないのだ。

物書きから、「お前は冷たい」といわれたことが何度かあるが、人間関係に臆病なのだろう。本田さんとよく酒を呑んだが、酒席でも素面でも、仕事の話をしたことはなかった。

本田さんに原稿依頼をしようと思ったのは、その頃、本田さんが文藝春秋の持つ“体質”に違和感を持ち始め、講談社に戻ってきてくれたと感じたことが背景にあったような気がする。

昭和の終わりが見えてきて、戦後を代表する人物を通して敗戦後の昭和という時代を書いてもらいたい、それには本田さんしかしないと考えたのは、至極当然であった。

「お兄さん、ずいぶんおでこが広いわね」

だが、企画意図には頷いてくれたものの、私が選んだ人選、美空ひばり、長嶋茂雄、石原裕次郎はお気に召さなかった。巨人ぎらいだから長嶋はダメ。裕次郎の映画は見たことがない。美空の歌にははっきりいって共感するものがない。

そこで相談だが、フランク永井じゃダメかなときた。今度はこちらがウンとはいえない。そんな問答をしているうちに、ようやく、美空でやってみるかといってくれた時は、正直、ホッとした。

美空の取材のアポは、意外に簡単にとれた。本田さんと一緒に青葉台の美空の家に行くと、2階のらせん階段から彼女が降りてきた。股関節が痛いようで手すりにつかまり歩はのろかったが、第一声はきつかった。

「お兄さん、ずいぶんおでこが広いわね」

私に向かって、そういった。大きなお世話だろう。

取材はおおむね順調だった。歌舞伎町のコマ劇場の楽屋にも何度かお邪魔した。伝法で寂しがり屋の彼女は、酒が離せないようだった。腰が痛むのだろう、楽屋では横になっていることが多かったが、舞台ではみじんもそんな様子は感じさせなかった。