人生の好転や暗転は、一喜一憂しても仕方のないこと
道長は、この宴から9年後の万寿4年12月(1028年1月)に62歳で病没しているのだが、この間、相次いで子どもたちに先立たれ、自身も病気がちで安らかではなかったようだ。まさしく、月は欠けていったのだ。
権力闘争の勝者であった道長は、満月が欠けることは嫌というほど知っていたはずだ。もしかしたら、道長は、宴の夜にはすでに体調の変化を感じていたかもしれない。私にとって、山本氏の新説が魅力的に思えるのは、十六夜の欠け始めた月の下で、暗転をどこかに感じながら、それゆえにこそ、二度とない、その夜の喜びを大切にしたいという思いが、何やら伝わってくるような気がするからだ。
ようやく、ここにたどり着いた。大吉を物寂しく思い、凶を芽が出る兆しとして教えた理由にだ。つらつら思うに、古人の言う通り、起こるべくして起こる月の満ち欠けと人生の好転や暗転は、一喜一憂しても仕方のないことなのだろう。しかし、だからこそ、二度とない、いまこの時を、大切に、丁寧に、精いっぱい生きるべきだったと、そうすべきだと古人は私たちに教えているのではなかろうか。古人の倍も生きるようになった私たちが、日々の競争の中で見失い、疎かにしがちなのは、自分自身の人生なのかもしれない。私にはそう思われてならないのだ。
まもなく、またしても新年を迎え、吉凶を占う日がやってくる。大吉に喜び、凶に泣く代わりに、欠けて行くとき、満ちて行くときの中で、明日のために今日を犠牲にすることの無いように、おみくじが、みなにとって、いまこの時を見つめ直すきっかけになることを祈りたい。
政治社会学者
1977年生まれ。博士(社会学)。首都大学東京客員研究員。現代位相研究所・首席研究員ほか。朝日カルチャーセンター講師。専門は、政治社会学・批判的社会理論。近著に『人工知能時代を<善く生きる>技術』(集英社新書)がある。