「大吉に喜び、凶に泣く」は古人の考えとは違う

そのためか、神社の中には商魂たくましいところもあるようで、わざわざ参拝に来て、おみくじを引いてもらうのだから、大吉が出たと喜んでもらい、リピーターになってもらおうと、大吉をたくさん増やしておくところもあるという。

いまでは、おみくじの中身も、大吉、吉、中吉、小吉、凶をベースに、グラデーションを増やすなど、さまざまな工夫を凝らしている神社もある。しかし、いずれにしても、大吉が最も良いとされていることに変わりはないようだ。

この社会では、何をどう信じるのも自由なのだから、何をどう価値付けするのも自由であって良いと思う。大吉に喜び、凶に泣く。それでも一向に構わない。しかし、何かと1番を求め、勝ち組だ、負け組だと序列化したがる昨今の風潮に照らせば、いま一度、古人の考えを思い直してみる価値はあるようにも思う。

ここにいう古人の考えとは、月の満ち欠けになぞらえることのできるものだ。古人いわく、

「満ちるは欠ける兆し、欠けるは満ちる兆し」

満月(望月)はほどなく欠けて行き、新月(朔月)はまた必ず満ちてくる。月がそうであるように、人生もまたそうである。この考えは、平安時代に貴族たちの生活の指針になった陰陽道(おんみょうどう)の影響があるようだ。太極は、陰は陽に、陽は陰に通じることを表している。

命あるものは必ず死に、盛んな者も必ず衰える

現代に生きる私たちは、月の満ち欠けと人生を重ねると、「人生、良いことばかりじゃないし、悪いことばかりでもない」などという、有り触れたメッセージを引き出してしまいそうになる。しかし、こんな理解は、いささか浅薄に過ぎると思う。

というのも、古人が書き残してきたものの多くは、しかも名文とされるものはどれも、この世の無常を見つめているからだ。命あるものは必ず死に、盛んな者も必ず衰える。生者必滅、盛者必衰、諸行無常、これが主題だ。少しばかり例を挙げよう。

平安時代初期の美女、六歌仙の一人、小野小町が詠んだ和歌は、百人一首にも選ばれているので、よく知られている。

「花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに」

花がたちまち色褪せていく様と、自分の老いを重ねた小町のこの和歌は、後代の人たちにも感じるところがあったようで、小町の美と老いをテーマにした「卒都婆小町」や「通小町」など、いわゆる「小町物」と呼ばれる数多くの作品が生まれている。