はっきりいえば、天璋院も静寛院宮も慶喜のことが「生理的に嫌い」だったのかもしれない。

とくに慶喜の「西洋かぶれ」が鼻についたのだろう。慶喜と静寛院宮が会見するとき、フランス式軍服を着用する慶喜を天璋院が拒絶する一幕もあったほどだ。慶喜のことを「豚一(ぶたいち)さま(豚肉が好きな一橋さま)」と呼んでいたのも「西洋かぶれ」だからだ。慶喜と同じように「西洋かぶれ」のはずの勝海舟とは交遊がつづいていたのだから、やはり「生理的に嫌い」だったとしか思えない。

いくら英邁であっても、自己中心的な行動をとり、積極的に声をかけてくることもせず、やれ「経費経費」とケチって、たとえば給湯室に置くお茶のランクを下げさせるような上司(慶喜)には、会社の女性たち(大奥のこと)は冷たくあたるわけだ。いっぽう、気さくに話しかけ、本音で語ってくる社員(勝海舟)には心を開く。女性たちに嫌われないための努力をしたか、しなかったか、の差だ。

いっさいの株を放棄させられ(「大政奉還」)、会社の地位からも追われ(「辞官納地」)、元社員たち(幕臣)といっしょに抵抗(戊辰戦争)したものの敗れ、とぼとぼと隠退し、おとなしくしていると思いきや、かえってサバサバとして、パンや牛乳を好み、趣味のカメラに没頭し、自転車を乗り回す。「西洋かぶれ」に拍車をかけているありさま。いくら男たちが「あの人は英邁だった」「会社のために身を引いたんだ」と褒めたところで、「生理的に嫌い」は続いたことだろう。