少数の権力者たちが学校を私物化するという「歴史」
少数の権力者たちが学校を私物化し、その周りに甘い汁を吸おうという輩が群がり、学生たちが払っている学費をぶんどるという図式である。
危険タックル問題以降、次々に明るみに出る日大の暗部だが、1960年代後半に学生生活を送ったわれわれの世代には、こうした構図に“既視感”をもつ人が多いはずだ。
『文春』で、日大芸術学部出身の作家・林真理子がこう書いている。
「今度のことでわかったと思うが、日大というところは、とことん根が腐っている。こうなったら学生諸君、ぜひ起ち上がってほしい。私は経験していないのであるが、七〇年前後に学生運動という大きなムーブメントがあった。その中でも注目を集めたのは『日大闘争』。学生側が大衆団交して、トップに退陣を迫ったのだ。警察も介入して、あの頃は凄い騒ぎだったと記憶している」
正確には1968年から69年にかけてのことである。
20億円の使途不明金、定員の3倍もの水増し合格、検閲制度、右翼暴力学生の跋扈を許し、時の政治権力と一体となって、わが物顔に日大を牛耳っていた古田重二良会頭をはじめとする理事たちに、敢然と反旗を翻して学生たちが立ち上がったのが、学生運動史に燦然と輝く50年前の日大闘争であった。
私の友人で、『週刊現代』記者時代に『線路工手の唄』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した橋本克彦は、当時日大芸術学部にいて闘争の内部をつぶさに見ていた。
橋本の『バリケードを吹き抜けた風――日大闘争』(朝日新聞社)から、当時の様子を書き写してみよう。
体育会系の猛者たちは、スト潰しに殴り込んだ
発端は、工学部教授の5000万円脱税だった。その後、東京国税局が日大の使途不明金が20億円あると発表した。
進歩的文化人だった日高六郎の講演会を学校側が中止させた。芸術学部の定員が1800名なのに、5514人も水増し合格させていた。教授たちにヤミ給与が配られていた。こうしたことが次々に判明した。
「古田会頭以下全理事は退陣せよ」。小さな火の手は経済学部から上がった。やがて路上で日大全共闘会議が結成される。
しかし、大学側は、暴力で学生たちを潰し、解決しようとしてきた。当時、日大にいて運動部所属だった私の友人は、その当時を振り返ってこう語った。
「日大闘争の記録では、全共闘の連中しか出てこないが、われわれ体育会系の猛者たちは、スト潰しに殴り込んでブチのめしてやったんだ」
そうした暴力学生たちには、古田側から日当が出ていたそうだ。
警察や機動隊が逮捕したのは、ケガを負った学生だった
学生側にはゲバ棒もヘルメットも圧倒的に不足していたと、橋本はいう。右翼暴力学生に襲撃され、殴られ、瓶で頭を割られた学生もいた。だが、暴力学生を排除するために来た警察や機動隊が逮捕したのはケガを負った学生のほうだった。
学長は襲撃した暴力学生たちに、「諸君は真の日大の建学の精神を体得した」と褒めたたえたという。
しかし、全共闘を支持する学生の数は膨れ上がり、ついには、権力者の私利私欲を満たすためだけの学園を取り戻すために「ストライキ」を決行するのである。
世論もこれを支持した。朝日新聞(68年6月25日付)も、「日本大学の異常な発展の中で、学校の近代化が妨げられ、この事態が自然発生的に起こったことは否定できない。一挙に古い体制から新しい体制へと変化しなければならない段階に来ている」と書いた。
燎原の火のごとく広がった闘争に、あわてた古田側は改革案を提示したが、どのような責任を取るのかを示さず、先送りにした。
全共闘会議はこう宣言した。
「われわれの敵は、教育者という上品な仮面をつけた下品な連中なのだ。上品な仮面をつけ合い、仮装舞踏会で彼らとワルツを踊るつもりなどない」