茶道が宗教であることの証明
現代における茶道のイメージは、岡倉天心の『茶の本』の影響を強く受けている。『茶の本』は、利休の切腹で締めくくられている。利休が切腹したとの現代人の信念、あるいは、今さら利休が切腹していないと言われても困るという気持ちを強化しているのは、『茶の本』ではないだろうか?
『茶の本』で、天心は、茶道が単なる儀式ではなく、哲学であり、人間がその死をかけて贖う足る信念体系という意味で宗教だと主張している。だからこそ『茶の本』では、茶道が宗教であることの証明として殉教者利休の死を最後に配置しているのだ。
無実の罪を着せられて、それを甘んじて受け入れて、最後の茶会を行ってから切腹をする利休の様子は、毒杯を仰ぐソクラテス、最後の晩餐を行ったイエス・キリストを連想させる。
西洋哲学の創始者ソクラテス、キリスト教の創始者イエス・キリストは、ともに自己の信念を貫いて非業の死を迎えることによって、それぞれの創始者たる資格を得た。
「美しいもの共に生きた人だけが美しく死ぬことができる」と述べた天心は、茶道の創始者たる利休も、非業の死をとげたのだ、と西洋人に主張しているように思える。
茶道創始者はなぜ、“自刃”したのか、との質問には、利休は“自刃”したから創始者になったのだと答えたのでは、答えとして認めてもらえないだろうか。