さらに大きかったのが1922年10月のコレラ発生だ。
それまで日本橋魚河岸では、疫病流行の際も病人を出したことがなく、魚の安全性を強調してきた。しかし、この時は病人が出てしまい、一時閉鎖に追い込まれた。
翌月、東京市計画局長をはじめとする東京市幹部・警視総監・市議会議員などが芝浦移転を前提に魚河岸を視察した。そして、魚がじかに土の上に置かれていることや、建物が築40年を超え、しかも市場と住宅が混在していることが批判された。要するに、現在と同じように、衛生上・機能上の問題点が指摘されたのである。
そして翌年、移転は一気に決定する。関東大震災の発生だ。
作家・田山花袋は日本橋魚河岸で被災した女性の語りを書き留めている。彼女は火災から逃れるため、魚を運ぶエンジン付きの舟に70~80人で乗り込んだ。
それから、舟は川の中を行くんですけれど、両側が火で、それがあおるように落ちかかって来るんですから、何のことはない、火の子の降る中を通って行くというようなものでした。ですから、あとでしらべて見た時には、七、八十人も乗ったのが、あっちで落ち、此方でおちして、終には四十人ぐらいになってしまいましたよ(田山花袋『東京震災記』)
こうして日本橋魚河岸は壊滅的な被害を受け、芝浦移転を余儀なくされた。鮭・鯖・鱒くらいしかなかったが、震災から3週間後には芝浦で商いが再開された。
しかし、数カ月もすると芝浦の敷地が手狭で、中心街からも遠いことが問題になった。その結果、急遽、移転したのが築地であった。
銀座のハイカラ文化は築地から運ばれた
市場が移ってくる前、築地はどのような場所だったのだろうか。
こんな風に今の銀座界隈その時分の「煉瓦」辺が、他の場所よりも早く泰西文明に接したというわけは、西洋の文明が先ず横浜へ入って来る、するとそれは新橋へ運ばれて築地の居留地へ来る。その関係から築地と新橋にほど近い「煉瓦」は自然と他の場所よりもハイカラな所となったのでありましょう。(淡島寒月「銀座は昔からハイカラな所」1921年)
築地は開国と文明開化を体現する街であり、現在の銀座のおしゃれなイメージも、実は隣の築地に由来する。
1858年、日米修好通商条約が結ばれると、取り決めで各地に外国人居留地が設置された。東京は「開市場」とされ、明治維新をはさみ、1869年に築地に外国人居留地が作られた。現在の湊(みなと)から明石町のあたりである。
横浜居留地との競合で、事前の予想ほどには商社は集まらなかったが、代わりに宣教師・学者・医師などが居を定め、欧米文化に触れられる最先端の街として築地は発展したのである。