当時、プラザ合意後の円高によって、日本メーカーは海外工場での部品の現地調達を急速に進めていた。ヤマハ発動機でも米国工場での部品を3カ月ごとに「数十個単位」で国産化しており、彼は米国の部品メーカーとの新たな取引に奔走すると同時に、それに伴う工場での混乱に対応する日々を送った。
「当時、工場には不良品の山ができ、生産計画が時々刻々と変化する状況でした。そのアメリカでの経験から私が学んだのは、生産計画や進捗の状況などを『見える化』する重要性です。生産進度、不良率、モノや人の動き……。細々とした説明などはとにかく省き、それらを図にしてポイントを紙に書き出したりしながら、パッと見ただけでみんながわかる工場にする。問題をシンプルに表現する努力を重ねることが、アメリカの工場をマネジメントするコツだったんです」
アトランタで5年間を過ごした柳は1998年に帰国し、二輪車のフレームを生産する森町工場に配属される。この工場の工場長を務めるなかでも、その経験が強く活かされたという。
「工場には『わかりやすい工場』と『わかりにくい工場』がある。日本の工場も当時はかなり酷い状況でしたが、その視点から生産の現場をつくり直すことが、いちばんの基本だという意識をより強くしていきましたね」
「今後はより『現場』を重視する」
社長就任後の柳はこうした背景をもとに、採算性の低かったライフサイエンス分野からの撤退など事業の再編、商品開発の手法の見直し、遅れていたインド市場へのテコ入れ、工場の集約化を一気に図った。今でも四半期決算の説明資料をほぼ自分で作ってしまうほどで、この時期にポイントを絞った経営改善を断行したことが、現在のヤマハ発動機の土台となっている。中型と大型の免許を取得してまで「袋井」で試乗を行う姿勢もまた、「今後はより『現場』を重視する」というトップとしての強いメッセージを、わかりやすく示そうとしているからなのだった。
「僕はたとえば海外出張をしたときも、常に現地の市場と工場を見なければ、経営判断を行いません。商品開発も同じで、投資する際に数字だけを見るのではなく、現場の声を実際に聞いて判断していく」
そうして組織や生産体制の効率化が成果を上げ始めた後、同社が取り掛かったのが2点目のポイント、「ものづくりにおける『ヤマハらしさ』」をどう打ち出していくかという課題だ。