パチンコ屋を経営し地域ナンバーワンに
【弘兼】当時からコンピュータで数字を管理していたんですか?
【熊谷】はい。出玉管理だけを行う、非常に原始的なコンピュータでした。パチンコ屋の経営で大切なのは、いかに席を埋めるか、なんです。暇な店というのは、利益管理ができていない。つまり、玉が出る台が限られていて、それ以外の台にお客様が座ってくれない。
【弘兼】暇な店であれば、「どの台が出るのか」とじっくり見ることができますものね。
【熊谷】一方、稼働率が高いと、席が空くのを、みんなやりたくてうずうずして待っている。釘を読まれて出る台ばかりに人がつくと、パチンコ屋は赤字になってしまう。だから、出る台、出ない台でいかにお客様に等しく遊んでもらえるか、が大切になる。パチンコ屋って売上高はものすごいんですけれど、利益率は低い。たくさん利益を取っているようなところにはお客様は来ません。稼働率を高めて、数%の利益でやっている店にお客さんがつくんです。
【弘兼】先ほどから「釘」という言葉が出てきていますね。今のパチンコはコンピュータで玉の出方を制御していますが、かつて玉の出方を調節していたのは釘師という職人だった。
【熊谷】僕も釘の調節をしていましたよ。初めてこういう取材で明かしますが、釘師だったんです。
【弘兼】えっ、本当ですか?
【熊谷】トンカチを叩いて、ミリ単位の調節をしていました。お客様も必死だから「仕事の後、晩ご飯に行こう」とか、釘師を買収しようとするんです。もちろんそういう誘いには乗りませんでしたが。いまだに当時の道具を持っていますよ(写真参照)。
【弘兼】これは年季の入った道具ですね。熊谷さんの原点がまさか釘師だったとは驚きました……。そのほか、パチンコ店で学んだ3つ目とは?
【熊谷】3つ目は「顧客心理」ですね。どうすればお客様が喜んでくださるか。つまり、あの店は玉が出ると印象づけることでした。朝一番から打ち止めになるほど玉が出るビックリ台というのをつくってみたり、宣伝活動で他の店よりも玉が出ると印象づけたりして、「出るから人がいる」という好循環をつくりました。
【弘兼】そして短期間で地域ナンバーワンの店にした。
【熊谷】あそこで学んだことが今のベースになっているといえます。パチンコ屋というのは、それぞれの台が一つひとつの店みたいなもの。数百ものチェーン店舗を経営しているようなものですから。
【弘兼】熊谷さんはパチンコ屋の店長として成功を収めた後、東京に戻ります。
【熊谷】ええ、父親が経営している東京の会社で働くことになり、江戸川橋の寮に住むことになった。それがひどい寮でした。建物全体が傾いていました。使用できる電気の容量が少なく、電子レンジとドライヤーを一緒に使うとヒューズが飛んでしまうんです。電気が使えなくなっても、ヒューズボックスが屋上にあって夜中は入れないので、朝までローソクで過ごさなければなりませんでした。
【弘兼】おいくつのときですか?
【熊谷】20歳ぐらいですかね。ある日、家に帰ってみると、妻がお金がないので明日から働くと泣いていました。彼女は毎朝、娘を保育園に預けて、ウエートレスのアルバイトをするようになりました。すると朝、預けられるのがわかっているので娘も泣くんです。それまで僕は与えられた環境で仕事を真剣にやっていて、自分の人生について深く考えたことはありませんでした。家族が泣いている姿を見て初めて、「これってもしかしたら幸せじゃないな」と気づいてしまったんです。
【弘兼】仕事に追いまくられていたのですね。