ホンダがF1レースに参戦するのもそのためです。F1が「走る実験室」と呼ばれていたころと異なり、今の量産車は環境性能や燃費のよさ、乗り心地が求められ、F1の技術が直接応用される部分は少なくなりました。好成績をあげてもかつてほどには販売に結びつかない。それでも世界の頂点を目指してF1参戦を続けるのは、技術者たちにとって修羅場を経験する最高の道場だからです。

レースとレースの間のわずか2週間の短い時間内に不調だったエンジンを一度壊し、トライ&エラーを重ね、さまざまなバランスをとりながら、いかに早くマシンをつくり替えるかが勝負です。「失敗したらどうしよう」などと思う暇もないほど集中し、極限を突き詰める。

その修羅場を経験させるために、年間100億円単位の予算を投入する。会社が主人公なのではなく、自分が主人公になって学び、やりたいことを実現していく人材が育成できるなら、惜しくはありません。

レースばかりでなく、海外の現地法人の少人数部隊に若手を送り込み、自分で回さないと何も進まないような状況に追い込む。それは上から教えるより、はるかに効果的な学びの場になるはずです。

私自身、修羅場をくぐり抜けました。忘れられないのは79年、CVCCから一転、世界二輪グランプリレース用マシンの開発責任者を命じられたときのことです。まったく未経験の分野でした。

60年代までホンダは二輪レースで圧倒的な強さを発揮しました。その後、自動車の技術開発に注力するため一度撤退。復帰は12年ぶりで前任者たちはすでに分散し、集められたのは私のほか、新入社員中心の若手ばかりでした。

当時、二輪市場ではホンダとヤマハが激しいシェア争いを演じる「HY戦争」が始まろうとしていました。一方、われわれが参戦した世界グランプリの500・級ではマシンの9割はスズキ製で残りはヤマハ製、ホンダのホの字もない。まわりは「ホンダが勝つに違いない」と予想しましたが、内実は素人集団です。

知ることから始めないと戦えない。相手を知り、戦う場を知るため、二輪レースの歴史や経緯、現状について文献を調べ、関係者に直接会って話を聞き、レース場に通い、徹底して勉強しました。

どんなマシンをつくればいいのか。二輪用エンジンには2ストローク(ピストン一往復ごとに点火)と4ストローク(2往復ごとに点火)があります。500cc級では4ストロークが主流だったのが、2ストロークのスズキ、ヤマハ勢が追い上げていました。われわれは馬力とトルク(回す力)の関係、燃費、重量、ブレーキ性能、量産車への応用……あらゆる項目を検討し、4ストロークでいく決断をしました。スズキ、ヤマハと同じでは面白くないという意識も強かった。

ところが、3年間連戦連敗。大失敗です。その間、2ストロークのほうはどんどん進歩してきました。これ以上無理して競争しても意味がない。われわれは方式の転換に踏み切ります。部品の技術も格段にレベルアップしたこともあり、非常に競争力のあるマシンが完成します。そして、本格的に2ストロークで参戦した83年、年間チャンピオンのタイトルを奪取するのです。