職人が誇りを感じられる仕事を

澄んだ音色が涼感を運んでくる「風鈴」。

克治は4代目だが、もともと能作家の出身ではない。福井県生まれの克治は、新聞記者を経て、1985年に能作家の娘と結婚、義父の経営する能作に入社した。異色の経歴だが、伝統にどっぷりと浸かっていなかったために、発想が広がり、能作の発展があったのかもしれない。また、克治は芸術大学時代に写真を専攻して、デッサンや造形の勉強もした。それが、製品デザインにも活かされた。

「当時は社員7人ほどの会社で、給料は手取りで9万円と安いし、よく我慢したなと言われるのですが、自分では全く苦労と思ったことはないですね。鋳物づくりが楽しくて、朝6時から夜10時過ぎまで働き続けました。土日も休みなし。鋳造作業だけでなく、商品デザインから営業、給与計算までなんでもやらないといけないので、ストレスがたまったんでしょうね。あるとき、トイレの中で腸から大量出血して死にかけ、幽体離脱のような体験をしました」

克治は結局、18年間も現場で踏ん張り、周囲も認める職人になった。職人としての誇りを持ち、がんばっていた克治だったが、ちょうどバブル時代の真っ最中のことだ、工場見学で能作を訪れた母親のひと言を聞いてショックを受けた。その母親は子供に、こう言ったのだ。

「勉強しないと、あんな仕事をやるようになっちゃうよ」

確かに鋳造作業は過酷で、当時は3K、4Kとも呼ばれ、大したおカネにもならない現場の仕事をさげすむ傾向が強かった。

「それを聞いて職人の地位を上げたいし、もっと給料も上げたいと思ったんです。職人たちが誇りを感じる仕事をしないといけない。そこで、下請け仕事から、特注の多品種少量生産に切り替えていきました。今では、大学卒業者も職人になりたいと当社に押しかけるようになり、新卒を採用、社員の平均年齢も31歳まで下がってきました」

ギフト用など1個からでも生産する方針になって、問屋からも特注が入るようになった。その中で、やはり自社ブランド製品を出したいという気持ちが高まった。

2001年、高岡市内で開かれた勉強会で、克治は自ら作った薄肉の建水(茶道具)を持参した。すると、参加していたデザイナーがその製品に着目し、技術を高く評価。そのデザイナーの勧めで、東京・原宿のギャラリーで能作の作品展が開かれることになった。

克治は、真鍮の素材を活かして着色をせず、作ったベルを並べた。人を呼ぶときに鳴らすベルである。これを見たブランドショップがそのベルを取り扱いたいとオファーが入った。喜んだ克治だったが、結果は全く売れなかった。日本の家庭ではベルを鳴らすことなどないのだから当たり前だった。