同年8月10日、第一艦隊は黄海海戦で旅順艦隊を破るのだが、その旅順艦隊はウラジオストクへ逃げていく。それを掩護(えんご)するため、ウラジオストク艦隊が出港した。
蔚山(ウルサン)沖で発見したのが、上村率いる第二艦隊だった。
8月14日、第二艦隊とウラジオストク艦隊のあいだで「蔚山沖海戦」となった。
北へ向けて逃げはじめたウラジオストク艦隊を第二艦隊は追撃。猛射を浴びせかけ、まず巡洋艦「リューリック」が落伍する。沈みながらもなお砲撃を止めない「リューリック」を見た上村は「敵ながら天晴れ(あっぱれ)」と言い、退艦した乗組員の救助と保護を命じた。
母港に逃げ込んだウラジオストク艦隊は、第二艦隊に浴びせられた砲弾の破孔の修理ができず、その後、出撃することはなくなった。
この蔚山沖海戦に勝利したことで、日本海軍は日本海の制海権を握ることに成功し、上村自身も汚名をそそぐことができた。
「あれは日露戦争のなかでもっとも失敗したものだ。あの場合は追撃すべきで、溺れる兵を救うなど論外。もっと追撃したら、ウラジオストク艦隊を撃滅できたのに、惜しいことをした」
真之は、このように上村を批判しているが、上村は己の武士道にもとづいて行動をしたにすぎない。「薩摩隼人」上村は、感情が激するタイプではあったが、血の温かい男だった。
日本海海戦でも、上村率いる第二艦隊は勇猛果敢に戦い、勝敗が決したのちも残存するロシア軍艦追撃に活躍してみせた。
日露戦争緒戦では「露探」呼ばわりされた上村だったが、見事に結果を出してみせた。日露戦争後に第一艦隊司令長官、さらに海軍大将まで昇りつめ、生涯現役を貫き通した。