「まず稼ぐこと」

藤井さんが持ち歩いているノートに(つまり紙の上に肉筆で)描かれた『UNDER GROUND MARKET』登場人物たちのイメージスケッチ。藤井さんの話の中には、「紙かデジタルか」という了見の狭い話は一切なかった。解はたぶん「紙もデジタルも」という広がりの中にある。

「通勤は必ずある」。ちょっとした時間も見逃さない藤井氏の呆れるほど精力的かつ多角的な販促活動は確かな実を結んだ。公式サイトの直販を含め、4種類のチャネルで販売している『Gene Mapper』のダウンロード数は9500。チャネル別に見ると、冊数ではKDPが60%、KWL(kobo Writing Life)が10%、iBooksが20%、直販その他で10%。販売金額シェアではKDPが40%、KWLが14%、iBooksが27%、直販その他が18%という構成だ。

気になるのが収益である。藤井氏は今年7月、9年間勤めた会社を退職している。執筆には通勤時間を充てていたとはいえ、多忙な状況が続き、さらに秋から仕事量が増えることが確実となったため、フリーランスの道を選んだという。

しかし、フリーとは不安定と同意語だ。固定給はない、有給もない。ヒット作を連発できる保証もない。先々への不安はなかったのか。

【藤井氏】いやあ、怖いですよ。とても家計を担えるレベルではありませんから。すでに中国語版を出し、いま英語版も進めているので、翻訳費用もかかりました。グーグルAdWordsにも20万円ぐらい使っています。しかも、売上も一度に払われるわけじゃない。十何回かに分けての支払いで、その都度発生する銀行の決済手数料がバカにならないほど高いんです。Amazonは今でこそ銀行振り込みで直接入金されますが、Kindleが日本で始まるまでは小切手でした。その小切手も、税引き前の140ドル分の売上が向うで元税を30%引かれて100ドルになり、その100ドルの小切手を換金するために、1回につき電子送金手数料が3500円もかかる。koboも毎回毎回、1500円の手数料が発生します。銀行の決済手数料だけでだいたい17、18万円ぐらいかかっている計算ですね。

 早川書房から『Gene Mappar』の文庫本が出たとはいえ、これまでの年収には到底、届きません。次にまた電子書籍を出したとしても、『Gene Mapper』ぐらいのヒットが出る可能性は極小に限りなく近いですから、そういう意味では、かなり無謀なチャレンジというか、生活は大きく変化しました。

とはいうものの、藤井氏の表情に悲壮感は感じられない。次回作は宇宙開発をテーマとしたテクノスリラー、公開は「来年早々」。電子連載も2点準備中だという(※)。電子書籍のセルフパブリッシングと、商業出版。この2つの使い分けが、小説家・藤井太洋の広い意味でのポートフォリオになっていくのだろう。

(※藤井太洋さんの「電子連載」に関する新情報は、10月25日にこのページへの追加記載を予定しています)

●追加記載
10月25日、藤井さんの新作『UNDERGROUND MARKET ヒステリアン・ケース』が、Amazonの連載出版用フォーマット「kindle連載」を用い、朝日新聞出版から刊行開始。
http://publications.asahi.com/news/361.shtml

【藤井氏】単純に物語だけを読んでもらうだけなら出版社を通した方がいい。それでもセルフパブリッシングのライブの感覚でないと伝えにくいような話も基本的にある気がしています。電子書籍そのものの可能性に向き合っていくようなテクニカルなことをしようと思ったら、セルフパブリッシングの方がやりやすい。これはプロモーションの方法にしてもそうですね。でもまずは、生活費を稼げるようにしないと。そこは本当にすごく大事なところ。まず稼ぐことですね。

「まず稼ぐこと」を強調するのも、藤井氏が退路を断ち、職業小説家になったからだ。執筆から編集・制作・販促までを一人でこなすマルチな才能にフェアネスな姿勢、そこに「覚悟」が備わった人間は強い。「これからも科学と未来の可能性を描きたい」と語るボーンデジタルな作家・藤井太洋が自らの未来をどのように描いていくのか、多くのファンが見守っている。

●次回予告
次回《デジタル時代の重要人物に訊く「実践マーケティング戦略」》第4回は、辻本昭夫さん(秋月電子通商会長)。「アキバ」の礎を築いた部品商のたゆまぬ好奇心に迫る。10月21日更新予定。

(撮影=プレジデントオンライン編集部)
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