マズローの法則がひっくり返った
ガーズマはかつてADWEEK誌で、“Maslow Upended”という短い記事を書いたことがある (2009年4月7日)。1980年代の景気拡大期を経験したアメリカ人にとって消費に身をやつし、富を築くことが、まさにマズローの欲求階層のピラミッドを登るがごとく「帰属意識」や「地位」、そして「自己実現」というより高度な欲求(あるいは野心)を追い求めることと重なりあっていたであろうことは想像に難くない。
しかし、不動産価値が暴落し、年金が消え、毎月65万人(記事執筆段階)が失業するという事態になり、食べ物や衣服といった「安全欲求」すら満たされることが自明ではなくなったのである。マズローの階層を何段階か突き落とされる経験をすることで、アメリカ人にとって、マズローの階層でも下位にある「安全」がむしろ共同で分かつべき「今」の欲求の対象となったとガーズマは述べている。そして今の日本では、この「安全欲求」は恐らく戦後で最大の値を示しているのである。
マーケティングに携わるものは、多かれ少なかれマズローを消費者理解の拠りどころとしていることが多い。往々にしてそれはマーケターの経験則もしくは希望的観測によるものであるが、肉体的欲求より精神的欲求、均質より多様の方が「上位」として位置づけられ、「過去」より「現在」、「現在」よりは「未来」の消費者の方が優れていると考えてしまうことの方が多い。
こういった消費者に対するいわば「進歩主義的理解」についての批判は今に始まったことではない(松井剛「消費社会の進歩主義的理解の再検討」一橋ビジネスレビュー2000)。しかし、つい実務上都合が良いという理由で、この左から右(あるいは下から上)というチャートを描いてしまうのである。
それでは幸いにして、今我々の社会を覆っているこの問題がかなり解決されたとして、再び消費者はマズローのピラミッドを登り始めるのだろうか。
ガーズマは前述の記事の最後で、それを「ブランド」が担うべき役割の一つに挙げている。「今日のブランドの役割は、人々が憧れるようなファンタジーの世界を作り上げることではない。人々が再び一歩ずつさらにゆっくりとマズローの階段を上るための自信を与えるのか、あるいはここにとどまりながらも、爽快なほどにリアルであるこの世界を楽しむことを勧めることかである。」と述べ、一方的な答えは出していない。
震災直後に若いプランナーが、「消費者インサイト(消費者の行動を動機付け、ブランドの選択・非選択の理由となる価値観・真理)のパート、全部書き直さなきゃ……」と呟いていたのをとても鮮明に覚えている。彼女がどう書き直したか見ていないのだが、消費者に向き合いながら自分自身にも向き合わねばならない日々が当分続きそうだ。
まだまだクライシスは過ぎ去ってくれそうにないが、この連載では、先述したBAVのデータを使って少し過去にも遡り、あるいは海外の消費者と比較したりすることで、日本の消費者の変相について考え、あわせてブランドが果たす役割についても考えてみたい。
※BAVについて:BAVは、ヤング・アンド・ルビカム独自の世界最大規模のブランド診断のデータベース。1993年より、世界51カ国、合計71万人の消費者(18~69歳の男女)を対象にしたグローバルな調査をもとに、44,000以上のブランドを評価・測定できる。ブランド診断を国別にできることと、カテゴリーにとらわれず相対的なブランドパワーを測定できることも、大きな特徴である。ブランドの現在のポジション、および強みと弱みを明らかにし、ブランドの育成、強化に関する新しい視点、具体的な解決策をプランニングするための方向性に示唆を与えてくれる。ブランド診断と平行して消費者価値観調査(4Cs)も行われている。