脱出口なき時代の自己啓発書

ここで、近年の現代社会論を援用して、自己啓発書が多く並び、また総体としてよく売れている現代社会について広く考えてみることにしましょう。

社会学者の大澤真幸さんは『不可能性の時代』のなかで、現代はタイトルにもあるような「不可能性の時代」であり、「『現実』への回帰」が起こっているのだと述べています(156p)。

説明が必要だと思うので、大澤さんの主張を順にみていくことにします。この議論は、社会学者の見田宗介さんが「夢の時代と虚構の時代」という論考(『定本 見田宗介著作集 VI 生と死と愛と孤独の社会学』所収)において、「現実」の反対語が時代によって変わるもので、それは「理想」(1945年-1960年)、「夢」(1960年-1975年)、「虚構」(1975年-)と変化してきたとする分析を発展的に継承したものです。

大澤さんは「理想」「虚構」「不可能性」という三つの区分から、戦後日本の精神史を通観しようとします。つまり、アメリカがもたらした「理想」への追随によって戦後の日本は復興・高度成長を成し遂げ、高度成長以後は商品やサービスの付加価値(イメージ)といった「虚構」が私たちの現実を覆うようになり、その果てに「不可能性の時代」がやってくるのだというのです。

ここでいう「不可能性の時代」とは、皆が憧れる「理想」などもはやない時代において、また私たちの現実世界が、メディアが張り巡らせたイメージ=「虚構」に覆われつくしてしまった時代において、より現実感が得られるような「どんな現実よりも現実らしく、現実を現実たらしめているエッセンスを純化させたもの」(4p)を欲しようとする心性の台頭を示しています。つまり、現実対理想、現実対虚構といった反対語がもはや成立しない状況を「不可能性の時代」と呼んでいるわけです。

大澤さんが「現実を現実たらしめているエッセンスを純化させたもの」として挙げる例は自傷行為、テロ行為、「特定の男女の実際の生活そのものを『ドラマ』として放映するテレビ番組」としての「リアリティ・ソープ」といったものでした(4-5p)。

自己啓発書は、前回述べたように、目の前にある現実自体を変えようとするのではなく、その現実に適応し、生き抜いていくために自らを変えようと主に訴えるメディアだといえます。もちろん、その主張は自己啓発書に独特な二分法的世界観というイメージ(虚構)のなかでなされるわけですが、そうしたイメージを通して促されるのは、今ある仕事への、今ある男らしさや女らしさへの、つまり現実への適応だといえます。

大澤さんの議論は非常に包括的なものですが、現実を理想に向けて変えるのでも、現実をイメージで覆ってそれに魅惑されてよしとするのでもなく、今目の前にある現実に、何も疑いを抱くことなくひたすら没入する心性が今日台頭しているとする解釈枠組は、自己啓発書の好調という現象にかなりよく当てはまるように思います。いってみれば、現実から「ここではない、どこかへ」と逃れる脱出口(かつては理想や虚構だった)が世の中のどこにも見当たらない状況において、最後に見いだされたフロンティアが「心」「自己」だったのかもしれません。

さて、連載で扱った共通傾向についてのまとめと考察はここで終わりです。つまり自己啓発書について具体的な評論を行うことは今回が最終回となります。最終回となる次回は、1年間12テーマの連載では扱いきれなかったテーマをいくつかとりあげ、自己啓発書論に残された「鉱脈」について考えたいと思います。

『「自己啓発」の時代
 牧野 智和/勁草書房

『わたしたち消費
 鈴木 謙介、電通消費者研究センター/幻冬舎

『不可能性の時代
 大澤 真幸/岩波書店

『定本 見田宗介著作集VI 生と死と愛と孤独の社会学』
 見田 宗介/岩波書店

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