アメリカが「虐殺」を許容した契機
1941年の日本の真珠湾攻撃を機に日独伊に宣戦布告したアメリカは、当初は軍事目標に対する精密爆撃を選択すべきで、焼夷弾による地域爆撃は国策に反すると主張していた。だが、1943年7月、ハンブルクを対象にした英米の最初の合同作戦が、米空軍の「方針」が変わる契機になったようだ。
アメリカは昼間の精密爆撃を行ったが、ごくわずかしか破壊できずに、19機が撃墜された。一方、夜間に行われたイギリスの地域爆撃では、焼夷弾による火災が短時間に人口密集地に広がり、全ブロックを燃え立つ地獄に変えたという。結局、約21平方キロメートルが焦土と化し、死者数は4万2000人に上った。
以後、1943年11月には、アメリカのアーノルド陸軍航空隊司令官は、目標の目視が困難な場合は地域爆撃もよしとした。これを受け、1944年6月の連合軍のノルマンディー上陸後、ドイツの無防備な都市に大量の高性能爆弾と焼夷弾を投下する作戦を計画。1945年2月のベルリン、ドレスデンへの大規模な空爆につながった。
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