富士通と日立の提携で交渉は一転して破談に
出口がPDP開発グループのリーダーになったのは、その3年前のことだ。73年に入社して以来、耐熱性フィルムなどを開発する「フィルム畑」を歩んできた彼にとって、それは突然の異動だった。
「研究本部長に突然『あそこでなんか怪しげなプロジェクトやっているから、行ってみろ』と言われましてね」
「プラズマテレビ」と聞いても、海のものとも山のものともつかない技術としか感じられなかった。
「事業性を検証して将来ものにならないと思ったら、さっさと潰しちゃおうというくらいの気持ちでした」
出口がそう感じたのも無理はなかった。電子情報機材事業本部長の藤川淳一専務も当時の状況をこう補足する。
「何しろ液晶のカラーディスプレイでさえ、白い点がいっぱい出てきたりして、『欠点のないものを買えた人は運がいい』と言われていた時代。ましてやプラズマなんかはテレビに使えない技術だと私も思っていたものですよ」
ところが、この90年代の半ばは、PDP開発における革新の時代でもあった。研究を先駆けていた富士通やパイオニアなどでも徐々に成果が出ており、1つの技術が芽を吹きつつあるときの高揚感が現場には漂っていたのだ。
約50名からなる東レのPDP開発グループでは、他社にはない新しい手法でPDPの背面版をつくろうとしていた。感光性ペースト法と呼ばれる技術で、隔壁の形成を他の手法よりも短い工程で、しかも高精細に行えるようにするものだ。
「21世紀の夢の壁掛けテレビを、我々もつくるんだ」という彼らの熱気。
「例えば試作品がひとつできたら、それをみんなで黙って見るんです。そこでプラズマの綺麗な絵を見たらね、全員の思いが何も言わなくても伝わってくるんですよ。この絵を世界中の人に見せたい。そんな気持ちが自然と湧いてきた」
これはものになるかもしれない――そう感じた出口は、その後のキャリアをPDPの開発に捧げることになった。
前述の研修センターでの発表は、そうして始まった研究の節目であるというだけにとどまらない、重要なものだった。
というのも、もともと東レは富士通への供給を目指して提案を続け、好感触を掴んでいた。ところがそのさなか、同社が日立製作所との提携を決定したのである。
「ある日、来月から東レさんは来なくていいよと言われましてね」
富士通・日立陣営はサンドブラスト法による背面版を採用し、感光性ペースト法を利用する東レは梯子を外される格好となった。いわばPDP開発の後発組である松下との提携は、出口たちの研究グループにとって、最後の希望だという一面があったのだ。