その制度改革の論議にめどが立った92年初め、上司に異動の希望先を聞かれた。上司は、普通の昇進コースである地方都市の支社長への転進を考えてくれていたが、「ロンドンへいきたい」と答える。視察団で欧米を回ってみて、米国の影響力は大きいが、すべての金融イノベーションはロンドンで起きている、と感じた。その最前線で、仕事をしてみたい。上司は「会社で偉くなるためには、あまり薦めないな」と言いながらも、実現してくれた。
ロンドン事務所は20人余りの陣容で、金融の動向や経済情勢に関する情報を、東京の国際部門へ送っていた。現地法人のほうは、外国人を5、6人雇い、円建ての融資や債券取引を手がけていた。部下の日本人は約20人で、両社を兼務する例が多かった。
ある日、ローレンス・ミラーと名乗る男がやってきた。南アに弁護士事務所を持つ、という。日本がバブルの絶頂期だったころ、生保にあふれる「ジャパンマネー」を南アにも投融資しないかと誘いにきたが、追い返されたらしい。
面白い人物だった。ロンドンのユダヤ人社会に通じているし、母国では政府や金融界に太い人脈を持つ。何度目かの食事の際に「せっかく仲良くなったので、一緒に面白い仕事をしませんか」と言った。同意すると、「出口さんの仕事は何ですか」と聞かれた。「円建ての融資が、最大の仕事です」と答えると、「考えてみます」と言って帰った。
2カ月ほどして、南ア政府の財政資金への融資案を持ってきた。「ただ、日本政府が南アを敵視せず、興味を持っているということを示してほしい」と付け加えた。なるほどと思い、「日本の金融機関による調査団をつくって、南アへいこう。そこに、大蔵省か日本銀行の人にも入ってもらい、日本が南アに関心を持っていることを示そう」と決めた。
ロンドン駐在の2年目。日銀のロンドンの責任者が団長を引き受けてくれ、何社かが呼びかけに応じて、6人でヨハネスブルグへ飛ぶ。5月か6月、南アは初秋の気候だった。蔵相や中央銀行総裁に会い、意見を交わす。「日本は遠い国だけど、南アにひじょうに関心を持っている。早く、国際社会へ復帰して下さい」と話すと、好感を持ってくれた。経済団体も、歓迎の宴を開いてくれた。約1週間いて、ミラーさんの事務所があるケープタウンにもいく。