お家騒動を避けるためにとったエグイ行動

以後、奥州では蘆名氏や佐竹氏を中心に反伊達同盟ができ、政宗との対立は激化するが、政宗は父の初七日法要が終わると、自分が殺した父の弔い合戦と称して二本松城を包囲。反伊達連合軍3万に対し7000余りの兵力で分が悪かったが、政宗は二本松城を落城させ、その名を奥州にとどろかせる。

その後、いくつかの戦いや和睦を通じて、天正19年(1591)には家督を継いでわずか5年で、奥州のほぼ全域を制圧している。だが、そこに立ちはだかったのが豊臣秀吉だった。

秀吉はすでに天正15年(1587)には、関東と奥羽に惣無事令を発し、私戦を禁じていたが、政宗は従わなかった。上洛の求めにも応じなかった。しかし、秀吉が小田原の北条氏を討伐する段になると、そこへの参陣要請は無視できなくなった。断れば、次は政宗が討伐の対象になることが明白だったからである。