老中に就任した松平定信に「火付盗賊改」を任じられるが…

宣以は、幕府上層部の受けはあまり良くなかった(「さして評判よろしからず候」)ようですが「奇妙」にも「町方」(江戸の民衆)の受けは「宜し」かったとのこと。「平蔵様、平蔵様」と言って江戸の人々は平蔵を慕っていたので、松平定信も「平蔵ならば」と言うようになったとのことです。

江戸の民衆が平蔵を慕ったのには理由がありました。夜中、町人が囚人を役宅に連れてきた時、普通ならば「ご苦労」とのみ言って、囚人を受け取り、そのまま町人を帰すでしょう。しかし、宣以はそうではなく、出前をとり蕎麦を振る舞ったのです(宣以は部下にもよく酒食を振る舞ったとされます)。しかも自腹でした。町方の者が宣以に心服するのも分かる気がします。

だが、見る人によっては「人気取りをして」と宣以を嫌う者もいました。田沼意次の屋敷辺りが火事になった時などは、宣以は田沼の屋敷に駆け付け、避難を促し、田沼の下屋敷まで誘導します。これは普通のことかもしれませんが、宣以は田沼の屋敷に行く前に有名な菓子司かしつかさ(鈴木越後)に立ち寄り、餅菓子を注文、更には下屋敷に夜食を持参するよう申し付けていたのです。

下屋敷に避難して一息付いたところで、田沼家の者に夜食が振舞われたのでした。「どうしたら、このように手が回ったのか」と宣以の要領の良さに意次は感心したそうです。この逸話も「権力者に取り入っている」と見る人によっては嫌悪感を抱くでしょうが、如才ないとも言えます。

「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、1787年(天明7)
「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、1787年(天明7)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

誤認逮捕をしてしまった際には自腹で慰謝料を出した

『よしの冊子』(松平定信のもとに集められた隠密情報を整理した史料)は平蔵を「手の廻る事は奇妙に功者」と評していますが、的を射た表現でしょう。しかし、その一方で同書は宣以を「山師・利口もの・謀計もの」とも書いています。松平定信は宣以に「山師」という評判が立っていることも知っていたでしょうが、先に見たような要領の良さ、機転が利くことも同時に知っていたでしょう。そうした宣以の能力を鑑みて、彼を起用したのでしょう。

宣以は火盗改として多くの盗賊を召し捕えることになりますが、なかには盗賊の誤認逮捕(召し捕り違い)もありました。現代でも警察が誤認逮捕や冤罪を認めて謝罪するのは珍しいとされますが、では誤認逮捕があった時、宣以はどうしたか。「3日・4日、牢内にいたらそれだけ家職(仕事)ができない。また妻子を養うこともできない。よって3・4日、牢内にいた分の手当てを、牢から出る時に与えた」のでした。誤認逮捕した者に対し、自腹で償ったのです。

明和の大火と火付盗賊改方の様子、「目黒行人阪火事絵巻」(模写)
明和の大火と火付盗賊改方の様子、「目黒行人阪火事絵巻」(模写)、国立国会図書館デジタルコレクション

宣以のことを「山師」や「小賢こざかしき性質」と非難する人もいますが、これはなかなかできることではありません。前掲の逸話から筆者には、宣以には父・宣雄の精神がしっかりと宿っているように感じます。