28歳で「自分は英傑と呼ばれるようになる」と豪語
明和9年(1772)10月、宣雄は京都西町奉行に就任、京都に赴任しますが、それには嫡男の宣以(27歳)も従っていました。当時、既に宣以には妻子がいました。宣雄は奉行としても優秀でしたが、安永2年(1773)6月、病により急死します。父の急死により、嫡男の宣以が家督を継承、宣以は江戸に戻ることになりますが、その際、見送りに来た与力・同心に対し「各々方、しっかりと御在勤あるべし。後年、長谷川平蔵は当世の英傑と呼ばれるようになろう。各々方、御用のため江戸に参られた時は屋敷に来られよ」と豪語したといいます。
28歳とは言え、まだ何の功績もない若者(宣以)の放言に、見送りの者は呆然としたことでしょう。良く言えば大志あり、悪く言えば自信過剰と言えるでしょうか。家督継承した宣以は、小普請入(役職に就くまでの待機組)となりますが、素行は悪かったようです。父・宣雄が倹約して貯めていた「金銀」を、「悪友」と共に遊里で使ったのでした。宣以は「大通」(遊里の事情や遊興の道によく通じていること)と呼ばれたと言いますので、通い詰めたのでしょう。
田沼意次失脚後、「打ちこわし」騒動を鎮圧し、人気者に
その後、宣以は安永3年(1774)に西の丸書院番士(将軍世子の住む江戸城西ノ丸御殿の書院番)、儀礼の場での贈答品を周旋する進物番に。天明6年(1786)には先手弓頭(旗本の番方として最上位)に任命されます。この栄進は松平武元、田沼意次(「べらぼう」で渡辺謙が演じる)という老中(首座)に引き立てられたからとされます。父・宣雄の功績は前述した通りですが、そのお陰もあったかもしれません。
ちなみに天明6年(1786)8月には田沼意次が失脚し、その翌年(1787年)には松平定信が老中に就任しています。この間、江戸と大坂で群衆による「打ちこわし」が起こりますが、この時、江戸にて鎮圧に尽力したのが、先手弓頭の宣以でした。鎮定の際の功績が認められたのでしょう、天明7年(1787)9月、宣以は火付盗賊改加役(助役)、翌年(1788年)には同職の本役に任じられています。