28歳で「自分は英傑と呼ばれるようになる」と豪語
明和9年(1772)10月、宣雄は京都西町奉行に就任、京都に赴任しますが、それには嫡男の宣以(27歳)も従っていました。当時、既に宣以には妻子がいました。宣雄は奉行としても優秀でしたが、安永2年(1773)6月、病により急死します。父の急死により、嫡男の宣以が家督を継承、宣以は江戸に戻ることになりますが、その際、見送りに来た与力・同心に対し「各々方、しっかりと御在勤あるべし。後年、長谷川平蔵は当世の英傑と呼ばれるようになろう。各々方、御用のため江戸に参られた時は屋敷に来られよ」と豪語したといいます。
28歳とは言え、まだ何の功績もない若者(宣以)の放言に、見送りの者は呆然としたことでしょう。良く言えば大志あり、悪く言えば自信過剰と言えるでしょうか。家督継承した宣以は、小普請入(役職に就くまでの待機組)となりますが、素行は悪かったようです。父・宣雄が倹約して貯めていた「金銀」を、「悪友」と共に遊里で使ったのでした。宣以は「大通」(遊里の事情や遊興の道によく通じていること)と呼ばれたと言いますので、通い詰めたのでしょう。
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