大吉が出る割合は16%、凶は29%だった
内容的には、良源が観音菩薩に祈念して授かった百の教えが漢詩で書かれていました。百あるおみくじのうち、吉35パーセント、凶29パーセント、大吉16パーセント、その他20パーセントと割合が決まっていたといいます。
現在のおみくじのように、参拝者がひくのではなく、寺の僧侶がひいて、参拝者はその内容についてアドバイスをもらうという方式でした。本来的には運試しというより仏の教えを乞うというのが起源だったのです。今でも比叡山延暦寺元三大師堂では、予約をすればこのシステムのおみくじを実施してくれます。
さらに江戸時代、徳川三代(家康・秀忠・家光)のブレーンとして重用された慈眼大師天海によって、おみくじは広まりました。運勢や吉凶を漢詩に詠んだもので、現代のおみくじとほぼ同じ様式だったといいます。今でも、お寺のおみくじは、この元三大師百籖がベースになっているところが多いようです(吉凶などの割合も)。
神社のおみくじも江戸時代まではこの元三大師百籖を使っていました。みくじ棒と呼ばれる細長い棒が入った筒状の箱を振って、小さな穴から棒を1本取り出し、記された番号と同じおみくじを受け取るというスタイルです。
圧倒的シェアを誇るおみくじ製造会社
しかし明治新政府が「神仏分離令」を出したことから、お寺由来のおみくじを使うのはまずいということになりました。そこで、お寺のおみくじに漢詩が書かれているのに対して、和歌が記されたおみくじが作られるようになりました。
日本には昔、「歌占」という神様からのお告げを和歌で授ける占いがあったことが由来です。そして、このおみくじを開発したのが、山口県周南市にある二所山田神社の宮司・宮本重胤だったといわれています。
宮本は、当時男性しかなれなかった神職に女性も登用すべきだと訴えて、女性の自立を求める活動を始めます。そして1905年(明治38)、「大日本敬神婦人会」を結成し、その機関紙として『女子道』を発行します。その資金を捻出するために、おみくじの製造・販売を行う「女子道社」を設立したのです。
歌人だった宮本が詠んだ和歌が掲載されるおみくじは好評で、神社のおみくじの原型になりました。「女子道社」は、大正時代に「おみくじの自動販売機」を考案し、あらかじめ折り畳まれた籤(みくじ箋)が主流になります。折りたたむ作業は一枚一枚手作業だそうです。今でも、全国の神社でのおみくじの約7割は「女子道社」製だといわれています。