多民族国家・オスマン帝国の栄枯盛衰
オスマン帝国は、かつては学校で「オスマン=トルコ」と習いましたが、現在の教科書では「オスマン帝国」となっています。この帝国は広大な面積を支配し、トルコ人の国家ではなく多民族国家になっていたという研究の成果です。
イスラム教スンニ派の国家として西アジアばかりでなくバルカン半島から地中海地方の広範囲に領土を広めました。ただし、領土内のユダヤ人やキリスト教徒に改宗を強制することはなく、税金を納めれば信教の自由が保障されていたのです。この寛容さが、14世紀から20世紀初頭まで存続できた大きな理由でした。
この帝国は君主であるスルタンがイスラム教スンニ派の指導者カリフ(ムハンマドの後継者)の地位を兼ねる体制をとり、16世紀にはイスラム世界の盟主となりました。
しかし、近代化に後れをとり、第一次世界大戦でドイツと同盟を結んだものの、イギリスやフランスに敗れ、1922年に滅亡しました。スルタン制度も廃止され、カリフの存在も1924年に廃止されました。ただ、イスラム世界では、いまもマレーシアのようにスルタン制度を採用している国があります。また、過激派がカリフを僭称する(勝手に名乗る)ことも起きています。
新生トルコはイスラムからの脱却を図った
第一次世界大戦でオスマン帝国を破るためにイギリスが三枚舌外交を展開したため、現在の中東の混迷をもたらしたことは、本書の第1章で述べた通りです。
オスマン帝国が滅亡した後、面積は小さくなったものの、新生のトルコ共和国として再建されます。これを指導したのがトルコ軍の英雄だったケマル・アタチュルクでした。
彼はイスラム国家としてアラビア文字を使用していたことが後れをとったと考え、西欧化させるために、トルコ語の表記をラテン文字(いわゆるアルファベット)に変更するという大改革を実施します。
それまで右から左に書くアラビア文字を、左から右に表記するラテン文字に転換させる革命的な表記改革によって、いったんはトルコの国民の大半が文字を読み書きできなくなるという事態に陥りました。