我が子が症例数の少ない病気に罹ったら、親は何をしてあげられるか。岸部知佐子さんの次男・岸部蹴くんは待望の第二子として生まれると、父が魅せられたサッカーを2歳から始める。しかし、小学校2年生に混じって東京で行われた練習試合に参加した翌朝、足に激痛が走り「神経芽腫」と診断される。知佐子さんは可能な治療法はすべて試したかったが、症例が少ないこの小児がんに対しての、「ドラッグ・ラグ」と「ドラッグ・ロス」に直面する――。

※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 増刊号』の一部を再編集したものです。

サッカーをする人
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父と息子で久保建英の背中を追いかけて

次に生まれる子どもが男だと岸部 知佐子が知ったのは、2008年5月、妊娠5カ月のときだった。

最初の子ども――小春はなかなか性別の判別がつかなかった。男の子だと思い込んだ夫の哲郎は、「蹴」という漢字の入った名前を考えていた。

子どもの頃からサッカーに魅せられた哲郎は、サッカー推薦で京都の洛南高校に進んだ。その後は別の道を進んだため、サッカー選手となる夢を託すつもりだった。しかし、生まれてきたのは女の子だった。

「私たち遅い結婚だったから、女の子でも生まれてきてくれて嬉しかった。旦那は蹴子という名前も考えていたんですが、小春日和に生まれたということで小春になりました」

小春にボールを与えてみたが、あまり興味を示さなかった。そこで哲郎は、他の子どもを育てようと地元のサッカークラブでコーチを務めるようになった。第二子を授かったのはそんなときだった。

「エコー(超音波検査)でおちんちんが映っていた。もう滅茶苦茶嬉しかったですね。私は、女きょうだい。母親も女きょうだいしかいない女系家族。男の子ってどんな感じなんだろうって。女の子、男の子のどっちものママになれるなんて、なんてラッキーなんだって」

10月8日、第二子である岸部 しゅうが生まれた。蹴は2歳ぐらいからボール遊びを始めた。

2011年8月、同じ川崎市に住む小学3年生の少年が蹴が2才のとき、日本人として初めて、スペインの名門FCバルセロナの下部組織に合格した。後に日本代表となる久保建英たけふさである――。

久保は小学校1年生に麻生区を拠点とするFCパーシモンに入り、小学校3年生のときに川崎フロンターレの下部組織に合格していた。哲郎と蹴は、久保の背中を追いかけることにした。

「まずはサッカー教室に(保育園の)年少から通い、年長からパーシモンに入りました。小学3年生になったらフロンターレを受けることも考えていました」

FCパーシモンは学年によって増減はあるが、一学年30人ほど所属していた。

「みんな(サッカーの)英才教育を受けている。負けず嫌いな蹴は、毎朝、パパと朝練をやっていました」