「量的公平」が面倒になり、諦めた

この時、小池氏がSNSを上手に使ったことも功を奏し当選した。マスメディアがストーリーを紡ぎ、SNSが有権者と小池氏の「つながり」を作った新しい選挙と私は受け止めた。

一方で、同じ7月の10日には参議院選挙が行われた。野党の力が弱く安倍政権の独壇場の選挙となったのだが、同時に報道が盛り上がらない選挙となった。

この頃から特にテレビの選挙報道が問題に上がり、BPOは翌年2017年に「選挙報道で求められるのは量的公平ではない」との文書を発表している。放送法に書かれた「政治的公平」とは回数や時間などの量ではなく、「質的公平」を担保すればよいのだ、との見解だ。だからもっと選挙報道を活発にせよとの意図があったと思われる。

量ではなく質、とは理念としてはわかるが具体性に欠け、テレビ局側もこの見解で意を強くすることもなかったようだ。こうしてテレビ局は選挙報道をすっかり控えるようになった。

大ざっぱにまとめると、「量的公平」に配慮していった揚げ句、報道できなくなってしまったのだ。面倒になったと言っても過言ではないだろう。アナウンサーやキャスターが「縛りがある」と言ってしまうのも、「選挙報道はできない」ことが当たり前になったためだろう。諦めがテレビから選挙報道を失わせた。

選挙についてSNSを規制する方法はない

キャスターたちの発言の中には、「我々には縛りがあるがSNSにはなくていいのか」と規制を求めるようなものもあった。報道機関が表現の自由を規制することを言うのはいただけない。

だがSNSの荒廃ぶりは世界的な問題になっている。オーストラリアで16歳以下のSNS利用を禁止する法律が成立した。ブラジルでは裁判所がX(旧Twitter)を禁止し、イーロン・マスク氏が折れる形で再開が許された。

日本では総務省の「デジタル空間における情報流通の諸課題への対処に関する検討会」という有識者会議でSNSなどのプラットフォームへの対処が議論されている。ただ各事業者のモデレーションに委ねられる方向性のようだ。

問題のある投稿やアカウントを事業者側が排除することは今後あるかもしれないが、表現の自由との兼ね合いもあり簡単ではない。ましてや、選挙期間中に絞った規制は難しいだろう。