「コスパ」重視なら、むしろ古典を勉強したほうがいい
「学校の授業で古文や漢文などの古典を教える必要はあるか?」
「古文なんて読めたところで生活で使う機会がない。それなら社会人になっても使える知識を学んだほうがいいのでは?」
受験シーズンになると、ネット上ではこういう議論が盛り上がるそうです。
古文は文法を覚えるのが大変で、苦手だという人の気持ちはわかります。でも、私は古典の知識が不要だとは思いません。
最近の若者はコスパ(コストパフォーマンス)やタイパ(タイムパフォーマンス)に敏感といわれています。コスパやタイパを重視するなら、むしろ古典を勉強するに限るのではないかと思っています。
そもそも、人間の思考はある程度パターン化されています。『千の顔をもつ英雄』(ジョーゼフ・キャンベル著、早川書房)、『神話の力』(ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著、早川書房)といった本を読むと、世界中に伝わる英雄譚は似たようなパターンで書かれていることがわかります。
『古事記』と『ギリシャ神話』は似ている
例えば、日本の『古事記』には、次のような話があります。
イザナキが亡き妻・イザナミに会うために死者の国である黄泉の国に行った。イザナキが「帰ってきてくれ」とお願いすると、イザナミは「黄泉の国の神と相談するので、その間は私を決して見ないでほしい」と忠告します。けれども、いつまで経ってもイザナミは一向にあらわれない。しびれを切らしたイザナキは御殿の中に入りイザナミの変わりはてた姿を見てしまう。醜い姿を見られたイザナミは怒り狂い、イザナキはイザナミから追いかけられ、殺されそうになる――。
実は、似たような話が、『ギリシャ神話』にもあるのです。
『ギリシャ・ローマ神話』は特に面白く、現代にも通じる比喩の宝庫といえます。一つの例を挙げましょう。
美少年のナルキッソスは、池の水に映る美しい少年を見て恋に落ちた。それはナルキッソス本人だった。ナルキッソスは水に映る少年に抱きつこうとして池に落ちて亡くなった。ナルキッソスが亡くなった場所には水仙の花が咲いていた。ナルキッソスの化身とされ、水仙のことをナルシスという。