釈放後―浜松で袴田さんと再会
それから30年以上過ぎた2014年の3月、再審請求がとうとう認められ、同時に釈放された袴田さんは、都内の病院に検査入院した。死刑確定者という身分は再審で無罪判決が確定するまでは付いてまわるのだが、再審の決定に拘置の執行停止を加え、社会に戻してくれた裁判官の勇気と英断に感激し、驚きと感謝の気持ちに満ち溢れる思いだった。
袴田さんは10日余りで退院し、姉・秀子さんのもとに帰った。そこは、秀子さんが弟・巌さんの支援と社会復帰後の生活のために浜松市に建てた、家賃収入が得られるアパートである。
私は、新聞社からの誘いがあって、袴田さんを訪ねた。すっかり落ち着いたであろうと思われた釈放から4年後の某日だった。姉の秀子さんとは釈放された年にお会いし、その後も集会では袴田さんの近況などをお聴きしていた。元法務省職員であり刑務官だった私が自宅を訪ねたら、連れ戻しに来たのではないかと思われ、心情を乱すのではないかという心配と、再び会える喜びと期待を込めての訪問だった。
秀子さんが「坂本さんが来たよ~。刑務官だった坂本さんよ」と巌さんに声を掛けた。返事はない。リビングの隣室に置いた椅子に座っていた袴田さんは、急いで布団を敷いて潜り込んでいたのだ。連れ戻されると思ったのかもしれない。
秀子さんから釈放後の生活状況を聴いた。拘置所の独房で習慣化したのか、毎日2時間から3時間、6畳間の中をぐるぐると歩き続け汗をかいていた時期があったという。
また、将棋の強さは相当なもので、来訪する支援者との将棋には誰とやっても負けないらしい。袴田さんとの会話は全く成り立たないが、高齢者がかかる認知症でないことは確かだった。死刑によって命を奪われるかもしれないという恐怖と拘禁による様々なストレスから身を護るために、脳が機能するという拘禁症に間違いないと思った。
私が秀子さんと穏やかに会話をしているのを見て安心したのか、午後の散歩の時間になると、袴田さんは布団から出て、外出の準備をはじめた。袴田さんはこの散歩を町の安全を守るパトロールと言っているとのことだった。
私は散歩に同行した。話しかけても返事は返ってこなかったが、肩を抱いても拒否されなかった。改めて、袴田さんの無罪確定の日がなるべく早くやってくるようにと、心の底から祈った。(第3回に続く)
- 【第1回】「袴田巌さんは、なぜ不死鳥でいられたのか」死刑確定直後に面会した刑務官が無罪を確信した瞬間
- 【第3回】「袴田さんの死刑執行を命じられたら、クビを覚悟でボイコットします」当時の警備隊職員たちが語っていた本音