最高裁に裏切られても袴田さんは不死鳥だった

1980年11月19日、面接をしてから4カ月後、最高裁判所は袴田さんの上告を棄却した。ついに死刑が確定し、袴田さんは死刑確定者という身分になった。

81年7月中旬、恒例の夏の予算要求泊まり込みで、袴田さんと二度目の面接をした。場所は、前年と同じ北舎の部屋を使わせてくれた。

私は、死刑が確定したことについて何と言えばいいのか悩んでいた。慰めの言葉が見つからないまま、そのときを迎えた。ただ、一年前と違ったことは、私が一冊の法律雑誌を持参したことだった。それは、前年12月に再審の開始が決定した免田事件の特集記事が載っている雑誌だった。警察と検察が証拠物を隠していたこと、アリバイ証人の供述調書の日時を改竄したことなどが書かれている。

私は法務省の職員という身を守るために、誰にも言わなかったが、そのとき既に袴田さんの冤罪を信じていた。彼の人柄が何より無実を証明する証拠だと思ったのだ。

「事務官、また呼び出していただいて感謝しています。この袴田、ボクサーとして地獄のトレーニングで鍛えた男です。裁判所には負けませんからご心配なく。人間の裁判官には過ちもあります。でも神様はわかっていらっしゃる……」

袴田さんは、去年よりもしっかりしていると思った。その言葉にはおごりも見栄もなく、あふれる闘魂をまだ抑えているという感じがした。

17年頃には午前中2時間のランニングを日課としていた袴田さん。『返ってきた袴田巌さんとともに』(キッチンガーデン 袴田さん支援くらぶ)より
写真=坂本敏夫氏提供
17年頃には午前中2時間のランニングを日課としていた袴田さん。『帰ってきた袴田巌さんとともに』(キッチンガーデン 袴田さん支援くらぶ)より

袴田さんは4月20日、再審請求書を提出したと話してくれた。

私は、持ち込んだ雑誌を彼に示し内容をざっと説明した。袴田さんは雑誌を手にとってページをめくる。警察の証拠隠しのあたりに目を移すと、険しい表情になった。免田さんが味わった苦しみに共感し、警察に対する怨念がよみがえったのだろう。

「読みますか?」
「お願いします。嬉しいです……」

それだけ言うと声を詰まらせた。私の涙腺も緩んだ。我慢できずに立ち上がって、袴田さんに背を向け窓の外を見た。景色などない。目の前には汚れて黒ずんだコンクリートの塀があるだけだ。私はこみあげてくるものをグッと飲み込んでから再び袴田さんの前に座った。