袴田さんと初めての面接

当時、袴田さんが収容されていた居室(独居房)は1929年に竣工した鉄筋コンクリート三階建ての北舎二階の一室だった。今は全面改築で取り壊されグラウンドになっている。

私は舎房中央にある部屋に通された。12畳程度の部屋で、会議テーブル2基と椅子が6脚あった。エアコンがある部屋である。

袴田さんは短パンにTシャツ姿で部屋に入ってきた。身長は165センチの私と同じくらいだが、胸板に腹、太もももよく締まっている。

「わざわざありがとう。掛けてください」。私が笑顔で言うと、にっこりといい笑顔を返してくれた。

無味無臭! 好感の持てる男性……それが四人を惨殺したといわれる男の第一印象だった。

逮捕から14年経っても終わらない裁判

「ここの1日は長いです。ちょうど14年経ちました」

袴田さんは私の目を見て静かに語った。14年経っても裁判が終わっていないというのは何か大きな問題がある事件である。

一審の静岡地裁は2年弱。これだけの大事件ではスピード結審と言える。控訴審の東京高裁は長かった。7年8カ月もかかっている。そして最高裁は4年を過ぎていた。

「14年間という拘置所の生活で困ったこと、こうしてほしいと思っていることをお聞きしたいのですが」私はあらかじめ準備してあった面接の目的に沿った質問を始めた。

「こういう場所ですから、不自由は覚悟していますが……」と前置きして、袴田さんはいくつか語ってくれた。

拘置所の蔵書として法律書をそろえてほしいということを最初に言った。冤罪を晴らすために拘置所に入ってから勉強したという袴田さんの言葉は重かった。

「満足に学業に励まなかったことを後悔し、本当に必死で勉強しました。まずは読み書きからです。裁判所に提出する上申書を書くために難しい言葉も覚えました。貧乏人ですから高価な本は買えません。拘置所で本を貸してもらうのですが、法律の専門書はないのか貸してもらえませんでした。兄と姉が自分たちの食費をけずって差し入れしてくれたお金で本を買うしかないのですが、もったいなくて使えません」

私は返事ができなかった。2、3年で転勤を繰り返す拘置所長はじめ幹部職員は冤罪なんてあるわけがないと思っている。現場で実際に被告人の悲哀を目にしていないからわからないのだ。したがって、被告人が裁判を有利にしようとすることに加担できないという立場にあって法律の専門書の貸与には極めて消極的になる。拘置所の蔵書のほとんどが娯楽物。これが真実だ。

袴田さんは無理難題を押し付けることは一切なかった。終始穏やかで、相手の立場に気を配って言葉を選んでいることがわかった。このときの袴田さんの心境を私は、最高裁判所はこの国の正義を守るところだから必ず真実をわかってくれる! という揺るぎない信頼感だと思った。彼は別れ際、私が差し出した握手を求める手を握って、「僕は裁判所を信じています。ビクビクしているのは僕を犯人に仕立て上げた警察です」と、笑顔で言った。