果たして本当に美談だったのか

主君の名誉のために自らの命を賭してまで、敵討ちを果たした赤穂浪士47人(一説には46人とする場合もあります)への同情と人気は、当時から凄まじいものでした。たちまちに歌舞伎や浄瑠璃、講談の演目として上演され、江戸庶民に親しまれる物語となったのです。こうして生まれたのが、私たちがよく知る『忠臣蔵』です。

歌川芳虎作「義士四拾七人」
歌川芳虎作「義士四拾七人」(画像=刀剣ワールド/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

四十七士による吉良邸の討ち入りは旧暦の12月14日に起きたことから、現代でも年末になると、『忠臣蔵』に関する演目でさまざまな興行が行われたり、NHKをはじめとしたテレビの時代劇で『忠臣蔵』が放映されたりと、日本人にとって時代を超えて愛されてきたコンテンツのひとつとなりました。

そこで描かれるのはやはり、非業の死を遂げた主君の無念を晴らそうとする大石内蔵助をはじめとした赤穂浪士の忠義であり、滅私奉公という道徳観への憧憬しょうけい、義理・人情に対する同情を喚起するものでした。主君のために自らの命を捧げるという忠義心が、現代に至るまで、人々の涙を誘ったのです。

時代をまたいでのロングセラーのおかげで、赤穂事件そのものはある種の美談として語られます。しかし、果たして本当にそれは美談だったのでしょうか。赤穂浪士に関する虚像は、この美談として語られる物語性そのものにあるように思えます。

吉良家は足利家の血を引く名家

というのも、問題はそもそもの事件の発端である、松の廊下での刃傷沙汰にあると私は思います。

浅野長矩は、「この間の遺恨を覚えているか」と言って、吉良義央を斬りつけたと伝わりますが、そもそもなぜ、そのような暴挙に長矩は及ばざるを得なかったのでしょうか。それを理解するためには、まず、2人の関係性を押さえておく必要があります。

事件当時、浅野長矩は35歳、播磨国赤穂藩を治める第3代藩主でした。系譜を辿ると、豊臣政権の五奉行のひとりである浅野長政に行きつく家系になります。長政は関ヶ原の戦いの直前に隠居しており、嫡男の幸長が、徳川方である東軍につきました。

その功績が認められ、幸長に紀伊国37万6000石、長政に常陸国5万石が与えられています。その後は転封てんぽうなどにより、三男・長重の子である長直の代で、赤穂藩となりました。その後、長政の領地は3代目の長矩に伝えられることになります。

一方の吉良義央は事件当時、62歳、高家旗本の当主です。幕府から高家肝煎きもいりの役を任ぜられていました。「高家」は、幕府の儀式や典礼、朝廷への使節、朝廷との間の諸礼、伊勢神宮や日光東照宮への代参、勅使の接待などを司っており、室町時代から続く名家などが世襲で務めるのが通例となっていました。

この高家諸氏の差配を担ったのが、高家肝煎です。吉良家は、鎌倉時代から続く、足利将軍家の血を引く一族でした。足利家が没落すると吉良家も衰退の一途を辿りましたが、家康の祖父が娘を吉良家に嫁がせたこともあり、江戸幕府に取り立てられたのです。