吉良邸に討ち入り、圧倒的な勝利を収める
当時、内蔵助の手元に残った資金は、金に換算すると約690両3分2朱。現在の価値に直せば、およそ6910万円です。仏事や御家再興のための奔走でさらに193両を費やし、江戸との往復にも出費はかさんだものの、残された資金で四十七士は主君の敵討ちを果たそうとしました。
改易から吉良邸討ち入りまでの1年9カ月は、この軍資金のなかからやりくりしています。そして、その全てを使い切ったのちの元禄15(1702)年12月14日、赤穂浪士47名が、3班に分かれて、吉良義央邸へと討ち入ったのです。
吉良邸には100〜150人ほどの家臣が詰めていたとされます。事件後、かなり早い時期に編纂された『江赤見聞記』の記録では、吉良側の死者16人、負傷者21人に対して、赤穂浪士は死者はゼロ、負傷者4人と、赤穂浪士たちの圧倒的な勝利でした。内蔵助らは綿密な計画を立てたであろうことがよくわかります。
バカな上司を持った不幸な部下たちの物語でもあった
吉良義央を討ったのち、赤穂浪士たちは亡き主君が眠る泉岳寺へと向かい、墓前に吉良の首を手向けました。その後、赤穂浪士は大名4家に分かれてお預けとなり、元禄16(1703)年2月4日、幕府より切腹を命じられ、同日のうちに執行されました。
以上の収支報告を、大石内蔵助は全て事細かに記録し、それが現在でも残っています。その細やかな仕事ぶりが窺える史料です。それほどに、大石内蔵助は傑出した人物だったと思うのです。
浅野長矩が主君としてあまりにも残念だったことを思うと、内蔵助の優秀さが際立ちます。と同時に、こんなダメな主君に命を賭してまで仕えた顚末を描く『忠臣蔵』を、ただの美談とするのは、どうも違う気がするのです。
美談というのはやはり、うまく作られた虚像のひとつであり、赤穂浪士の実態は、なんともバカな上司を持ってしまった不幸な部下たちの話とも言えそうです。