藩士300人全員の給与と退職金を手配
赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助のもとに主君の切腹と改易の報せが届いたのは、事件から5日後の3月19日のことでした。内蔵助は同日のうちに藩士たちに登城を命じ、事件のあらましを報告しています。翌日にはすぐに藩札の回収に動きました。
江戸時代では金貨・銀貨・銭貨だけでなく、諸藩独自の貨幣が発行されていました。藩札はその独自通貨のことであり、金貨・銀貨・銭貨と交換ができます。しかし、改易となれば紙切れ同然です。だからこそ、内蔵助は藩札の回収を急ぎました。
同月27〜29日には再び藩士を城内に集め、大評定を実施しています。当時の慣習としては「喧嘩両成敗」が道理として生きていました。それゆえに、吉良義央が処罰されなかったことに対する不満が強く、大評定は紛糾します。
籠城しての抗議、家臣一同が殉死しての訴えなどさまざまな意見が飛び交いますが、一同は浅野家の再興を願って、無血開城を選択しました。同年4月、赤穂藩が所有する船や武具、材木など幕府に返上するもの以外は、全て現金に換えて、藩の財政の清算が実施されます。藩士300人の最後の給与と退職金もこのときに支払われました。
なお、内蔵助は退職金を受け取らなかったとされています。
浅野家の再興に賭けたが…
給与と退職金の総額は、金に換算して2万4009両3分。現在の貨幣価値にすると、およそ24億97万5000円。1人平均800万円くらいでしょうか。額面だけ見ればそれなりの金額と思えるかもしれませんが、武士は家族のほか養わなければならない使用人を抱えています。それらの支払いを考えると、決して満足な額とは言えません。
4月19日、赤穂城を幕府に明け渡し、赤穂浪士は散り散りとなりましたが、内蔵助を中心に手紙などで連絡は取り合うこととしました。そこで、旧浅野家家臣として何をなすべきかということが議論されました。
意見は大きく分けて2つです。ひとつは浅野家の再興に賭けるという意見。浅野長矩の弟・大学を新たな藩主として担ぎ出すというわけです。もうひとつは、吉良義央の首を取り敵討ちを果たすべきだという意見です。内蔵助らは前者を、堀部武庸らは後者を主張し、意見は割れてしまいます。
しかし、元禄15(1702)年7月、兄が起こした事件後は謹慎処分となっていた浅野大学は、旗本身分を剝奪されてしまいます。広島藩・浅野本家の預かり処分となったことで、御家再興の芽は潰されてしまいました。こうして浅野家再興を主張した内蔵助らも、敵討ち派に合流し、吉良邸への討ち入りを決心するのです。