なぜ「この間の遺恨を覚えているか」と言ったのか
先にも述べたように、刃傷事件が起きたときはちょうど、朝廷からの使者をもてなす儀式が行われていた期間にあたります。このとき、浅野長矩は饗応役を務め、吉良義央はその指南役でした。
その2人の間に、長矩が「この間の遺恨を覚えているか」と言わなければならないほどの確執が生まれたとすれば、やはりその儀式の準備などの過程で何かあったのだと考えられます。しかし、長矩はなぜ吉良義央を斬りつけたのか、動機を明かさなかったため、真相はわかっていません。
塩田と塩の製法をめぐる確執とも言われ、さまざまな説が唱えられていますが、いずれにせよ、江戸城の松の廊下で、しかも朝廷の使者をもてなす儀式期間中にそのような刃傷沙汰に及ぶというのは、明らかに浅野長矩の落ち度であると言わざるを得ません。饗応役と指南役の間で何かあったとすれば、それはその指導の過程での揉め事だったのかもしれません。
しかし、浅野長矩と同じく饗応役を務めた伊達左京亮村豊も吉良義央の指南を受けたひとりでしたが、彼は吉良義央を斬りつけることはしていません。ということは、吉良義央は饗応役にふさわしい振る舞いをするよう、普通に指導しただけだったのかもしれません。
逆ギレしてしまう「バカ殿」だった
ところが、浅野長矩はそのようには思わなかった。自分のメンツを潰されたと感じたのかもしれません。今で言う「逆ギレ」です。浅野長矩は怒りに我を忘れやすい、激昂・直情型の人間だったと言わざるを得ないでしょう。
しかし、それが刃傷沙汰に直結するとなれば、穏やかではありません。それがもとで浅野家は潰されてしまったのですから、あまりにも短絡的です。赤穂に戻れば、家臣やその家族たちもいる。自分の行動ひとつで、その人たちの生活も台無しにしてしまうことがわかりそうなものですが、それができなかった。人の上に立つべき人間の器ではない、ダメな殿様だったのです。
浅野長矩の「バカ殿」ぶりに比べると、四十七士を率いた大石内蔵助の傑物ぶりが際立ちます。彼は主君の敵討ちをやり遂げただけでなく、収支記録をきちんとつけた上で、赤穂藩の清算をしました。ちょうど討ち入り前に資金がゼロになるように、勘定もきっちりしていたのです。
初めからゼロになるようにしたのか、資金が尽きるからそろそろ敵討ちをするかと動いたのかはわかりません。しかし、その手腕は見事なものです。赤穂藩の清算から吉良邸への討ち入りまでを見ていくと、きちんと資金を管理している点がよくわかります。