初めて自らの無力を思い知り、諦めの境地に
『栄花物語』は、この時こそ道長は「まことの道心」を起こしたという。ならば先の寛仁3(1019)年の出家は真の出家ではなかったのだ。あの時、道長は重病に苦しみながらも「もう命は惜しくない」と満足げに人生を振り返った。
だが真の出家とは、光源氏がそうであったように、自分の無力を思い知り諦めの境地に達することによって、苦悩も愛執も含めたすべての煩悩を断ち、仏にすがることである。ただ光源氏にさえ、悟りの道へ踏み出すためには紫上の死後、1年間もの悲嘆の時間が必要だった。昨日今日、嬉子を亡くしたばかりの道長に可能なはずがない。
嬉子の葬送は、8月15日に行われた。折しも中秋の名月が空にかかり、人々は「かぐや姫が昇天した月もかくや」と見て、嬉子を偲んだという。帰宅して呆けたように肩を落としている道長を、延暦寺の座主・院源は諭した。世とはこんなものと悟れというのである。
「娘がただ恋しい、娘に会いたいのだ」
「この世に、御幸ひも御心掟も、殿の御やうに、思しめし掟つることに事たがはせ給はず、あひかなはせ給ふ人はおはしましなんや。この三十年のほどはさらに思しむすぼほるることなくて過ぐさせ給ひつるに、いかでかかることまじらせ給はざらん。この娑婆世界は、苦楽ともなる所とは知らせ給ひつらんものを」
(「この世に、殿のように御幸運も御意向も思いのままの人などいらっしゃるものですか。権力を手中にされた30年前からこのかた、何一つ悩み事もなくやってこられて、時にはこうした悲しみの一つ二つ、どうして訪れないことがありましょうぞ。娑婆世界が苦楽共存の所とは、とうにご存じでしょうに」)
(『栄花物語』巻二十六)
道長をふがいないと叱咤激励する院源に、道長は「そんな理屈など全部分かっている、だが娘がただ恋しい、娘に会いたいのだ」と駄々をこね、水晶のような大粒の涙をぽろぽろとこぼした。これには院源ももらい泣きしたという。
〈幸ひ〉の人は、不運に慣れていなかった。〈幸ひ〉であったがゆえに、悲しみの打撃は大きかった。幸運の果ての不幸の沼に、道長は足を取られた。