「自分もいつ死ぬかわからない」と危機感を抱く

医師が下した死因は「糖尿病薬による低血糖に伴う心不全」。母は糖尿病を患っていて、血糖値を下げるための薬を服用していた。

父の話によると、私の家を訪ねてきた翌日に親戚の法事に出席した際、風邪で体調を崩し、食欲がないと言い出した。

問題は食事を断っても糖尿病の治療薬だけは飲み続けていたことだ。

食べずに薬を飲み続けていたことで急激に血糖値が下がって心停止に至ったのだろうというのが医師の見立てだった。

思えば母は生涯に一度も大病院にかかったことのない人だった。

糖尿病に関しても近所の診療所で診断を受け、薬を処方してもらっていたのだ。

死の直前、食べるものも食べずにぐったりとしている母に、父が「病院へ行こう」と勧めた時も「動きたくない」と拒絶し、「救急車を呼ぼう」と提案すると「それだけはやめて」と懇願したという。

この話を聞いて思い出したのは、生前に母が「自分の介護で家族に迷惑をかけたくない」と言っていたことだった。

母は祖母の介護問題を巡って姉妹で深刻な諍いを起こした経験があったため、自分はピンピンコロリで逝きたいと切望していたのだ。

果たしてその通りになったが、私には母が自分の死を予感していたのではないかという気がしてならない。

日本の葬儀の儀式
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死の3日前に我が家で食事をした時、母は「明日は三回忌に出席するんだけど、七回忌には私は生きていないから、これが最後なの」と意味深なことを言っていた。死の前日には父に「私の葬儀にお金がかかるから銀行でおろしておいたほうがいいわよ」と言っていたという。

その時、父は一笑に付したというのだが、人はいつ死ぬかわからない。実際、3日前までピンシャンしていた母があっさりと逝ってしまったのだ。

私は父の資産整理をしながら、あの時父が「自分もいつ死ぬかわからない」と危機感を抱いてくれていたら、そして自分で資産整理をしてくれていたらと感じていた。

母がいなければ一日も暮らせない父の生き方

大正生まれの父は「男子厨房に入らず」を絵に描いたような人だった。

料理も洗濯も家事は何一つできない。つまり母がいなければ一日も暮らせない生き方をしていたのだ。

本人は母の死後「大丈夫だ、一人でやっていける」と言い張っていたが、できるはずがないことは明白だった。

父の子供は私と弟だけなので、どちらかが同居するしかないと考えて相談を切り出したところ、弟の家は狭くて父の部屋を確保できないという。

一方、トカイナカの私の家は8部屋あることから、父は我が家で引き取ることになった。

ただ、それまで両親が暮らしていた新宿区高田馬場のマンションは売却していなかった。父が、いつかは戻って一人暮らしをすると言って、聞かなかったからだ。

父は戦後、毎日新聞で記者として勤めあげたあと、大学で教員職に就いていたので、年金も受給していたし、資産も十分にあった。

だから我が家で父にかかる生活費を請求してもよかったのだが、何のルールも決めずに共同生活を始めてしまい、結果として父が契約するインターネットの通信費や新聞代などの諸経費は私が払い続けた。

そのあとに始まった介護生活に必要な費用も私が負担した。