市場は探して見つかるものではない
販売台数が伸びない期間がしばらく続いたあと井深と盛田が採った方策は、エンジニアのほぼ全員を動員し、彼らに営業活動をさせることだった。ソニーがこうした過程を経て学んだのは、ノーベル経済学賞受賞者のロナルド・コースの言葉どおり、「市場は探して見つかるものではない、創造しなければならない」という教訓だった。
新しい市場を創造するために、ソニーは、独自の流通、販売経路を構築する必要があった。そこで1951年、子会社「東京録音会社」を設立し、これがローカルの職(販売、流通、教育、サービス、サポート等)を創出するきっかけとなった。
あるとき井深は、東京録音会社の幹部に全国を行脚して学校で実演をするように命じた。実演の効果は絶大で、あまりにも多くの学校から注文が入ったために、生産が追いつかないほどになった。さらに、顧客が製品を快適に使いこなせるように、エンジニアの一部に販売後の顧客サポートを担当させたところ、売上はさらに伸びた。
ソニーは、新しい市場の創造には努力が必要であること、それには大きな見返りのあることを学んだのだった。
その後もソニーはイノベーションを追求しつづけた。新市場の創造──まず日本でつくり、その後、輸出する──に焦点を当てつづけ、決してぶれなかった。
成功の方程式
1955年、ソニーは世界初の電池式小型トランジスタラジオを完成させた。この電池式トランジスタラジオは、それまでの真空管ラジオと比べて、音質では劣っていたが、小さく、安く、「質もまあまあ」だった。
ターゲットとしたおもな顧客は、値段の高い真空管ラジオを買うことのできない十代の若者だったが、彼らは親の耳に届かない場所で、友人と一緒に音楽が聴けることを非常に喜んだ。
私自身、かつて、トランジスタラジオを買い、音楽を聴いてわくわくしたことを憶えている。私にとってトランジスタラジオは文明の進化の象徴だった。50年代の終わりごろには、多くの競合会社が参入し、電池式トランジスタラジオの市場は数億ドル規模となった。
ソニーも雇用を増やし、莫大な利益を上げると同時に、ソニー自身と日本国民に「イノベーションによって、自らの力で繁栄への道を切り拓くことができる」という希望を与えた。
ソニーはそれ以降も、まず本拠地である日本で市場創造型イノベーションを発進させ、そのあと世界に進出するという成功の方程式を何度も繰り返すことになる。