「わかっていてもできない」が発生するのが現場
「発生論的運動学」という学問がある。身体運動を高めるためにはコツやカンを習得しなければならないが、それらの発生を現象学的に掘り下げる分野であり、シンプルに言えば、「わかる」と「できる」の違いを明らかにするのを目的としている。
身体運動を習得しようとする場面では、「わかっていてもできない」という事態が往々にして起こる。頭で理解していても、からだがそのようには動いてくれない。バットやラケットの持ち方がわかっていてもうまくボールを打ち返せない、手順がわかっていてもうまく跳び箱を跳ぶことができないなどという現象が、あらゆる運動習得場面で生じる。
これはうまくコツがつかめず、カンが働かないからだ。つまり教員には、児童生徒がコツやカンをつかめるように、頭での理解としての「わかる」と、からだでの実践としての「できる」をつなぐことが求められる。
アスリートは自らの動きを言語化するのが苦手
言葉で言うのは簡単だが、この実践がなかなか難しい。「わかる」と「できる」の関係は実に複雑だからである。
というのも、運動習得場面では「わからなくてもできる」といったことも起こる。頭で理解せずとも見様見真似でできてしまうことがあり、言葉による説明を経ずとも感覚的にその動きを習得できてしまうのだ。「できる」に至るには「わかる」ための言葉が必ずしも必要なわけではない。反復するうちにいつのまにかできてしまうことも、ままにある。
もうおわかりだろう。トップアスリートがまさにそうである。
トップアスリートは運動神経がいい。つまり、コツやカンを掴むのがうまい。指導者からの言葉による説明を理解できずとも、その足りない部分を身体感覚で補う能力を備えている。類まれなる身体感覚を駆使し、たとえわからずともできるようになった経験を有しているのが、トップアスリートだ。だから感覚的に掴むことには長けている。
しかしながら――いや、だからこそと言うべきか――元トップアスリートは自らの動きを他者にわかりやすく説明することが苦手だ。彼、彼女らは、自ら体現できる動きをうまく言語化できず、言葉に詰まるか、「スーッ」「グッ」「パッ」など、オノマトペだらけでの説明をする傾向にある。ここに、先にも述べた「自らできる」と「誰かに教える」の壁がある。