向上心を学ばせるならば「スポット講演」で十分
なぜ元オリンピアンを安易に教員に登用することが危険なのか。
子供たちが卓越した人物に触れることの大切さを、私は否定しない。努力の果てに高みに達した人が成長期の子供にもたらす影響は、確かにある。子供たちは彼、彼女から諦めずに努力を続けることの大切さや、緊張や不安のやり過ごし方、あるいは困難を乗り越えるための心構えなどを感じ取り、それがきっかけとなってときに大化けする。向学心など、自分を高めるために必要な意欲が湧いてくることもあるだろう。
だが、それは講演やスポット指導で十分に伝わる。先生という立場で毎日顔を合わせなくたっていい。むしろ毎日顔を合わせることはマイナスに作用しかねない。どれほど功成り名遂げた人であっても、身近になればなるほど慣れてしまうからだ。新鮮さが薄れ、トップアスリートの存在が醸す卓越性が感じられなくなる。スポット指導と日々をともにしながらの指導は、意味合いがまったく異なる。
「名選手名監督にあらず」
そもそも運動指導には、座学とは異なる困難さがつきまとう。伝えないといけないのはコツやカンといった身体感覚だ。コツやカンは、身に付けるのもさることながら、教えるのはさらに難しい。この難しさは、子供に自転車の乗り方を教えたことがある人ならば経験的にわかるはずだ。
「名選手名監督にあらず」と言われている通り、高い競技能力を備えているからといって必ずしも高度な指導ができるとは限らない。「自らできること」と「適切に教えること」のあいだには千里の逕庭がある。コツやカンを教える術は、それなりに訓練を積んだあとに指導現場での経験を積み重ねるなかで、次第に身についていくものだからだ。