平川さんは「嬉野店で大人気のメニューを商品化しました」と取引先に見栄を張った。本当のことは、言えなかった。前に進むしかなかった。
温泉湯豆腐を卸していた生協で新商品「豆乳もち」「濃い豆腐」「豆腐どん」を売り出すと、生協から大量の注文が入るようになり、佐賀県内の豆腐店として売り上げが一番になった。2013年頃、雑誌やテレビで嬉野店が紹介される機会が増えた。SNSで口コミが広がり、嬉野店の客足も徐々に増えていった。
振り返れば、社長に就任した2006年頃から平川さんは、スーパーの掃除や棚卸しに行かなくなっていた。
「町の豆腐店」からの脱皮を目指して
商品が売れ始めると今度は、大量受注に生産が追いつかなくなった。
家内工業のように少量の豆腐を作るのとは、わけが違った。角のある四角い豆腐をたくさん作るには、技術が要る。大量に豆腐を作っては、不良品の山ができた。
忙しすぎる現場では、雇っても雇ってもひとが辞めていった。豆腐作りの技術も途絶えてしまう。平川さんは、ひとへの負担を減らし効率化を図るため、製造に手間のかかる商品をやめた。売り上げのある商品を自ら手放すことは、大きな決断だった。
生産量が増えるたびになんとか人海戦術で乗り切りながら、2013年、2018年と工場を増設。流通や豆腐作り、人材採用の専門家を頼りに、量産体制を整えていった。
「たくさん商品が売れて嬉しいというより、どうやってこの受注を乗り切るかということばかり考えていました。なにがあっても欠品は許されない。這ってでも商品を持ってこいという圧力を感じていました。1日24時間じゃ回らない……当時は本当に具合が悪かったです。でも、その注文に対応できたからこそ信用を得られた部分もあって。今でも取引は続いています」
作るのは、豆腐じゃなくて「豆腐文化」
入社から15年、会社を立て直そうとがむしゃらに走ってきた。そこに、走る理由は必要なかった。ふと立ち止まってみると、会社は廃業の危機を脱していた。
「これから先、どこへ向かうのか」
2015年、次なるステージに向けて平川さんは、ビジネススクールへ入校した。
これまでの取り組みをプレゼンすると、「企業再生のケーススタディ」としてまとめられクラスの教材となった。そのおかげで、佐嘉平川屋が一番苦しかった時のことを知る、幅広い年齢層のひとたちとのつながりができた。
そこには、業界の枠を超えて自由にチャレンジするひとたちがいた。
「自分の会社でももっといろんなやり方ができるし、もっと自由にやっていい。豆腐屋だからって豆腐を作っているだけではダメだ」。平川さんは、固定観念に縛られていた自分に気付いた。
『サピエンス全史』など人類の歴史本が好きな平川さんにとって、ひとりの人間の一生はほんの一瞬。「だったら好きなことをしたい。大きくて長く残るものを生きた証として残したい。そう考えた時に一番息が長いものは『文化』なんじゃないかって思ったんです」
一朝一夕では真似できないブランド
手元を見ると、そこには「豆腐」があった。
「食糧問題や環境問題を考えてみても、植物性タンパクの豆腐なら、機能的にも世界を救える可能性がある。実は豆腐って、面白いんじゃないか。豆腐って、世のなかのど真ん中じゃん!」
それまで生活するための手段であり、儲けるための手段に過ぎなかった「豆腐」の可能性が見えてきた。
同じように「ある」ものを見ようとした時に、地元佐賀にも「温泉湯豆腐」や「ごどうふ」といった独自の豆腐文化があり、全国有数の大豆の栽培地でもあることに気付いた。