国民は「貧乏で暮す權利を持つて居る」
問題は「差別されない」という一節。マッカーサー草案のほうには「No discrimination shall be authorized or tolerated in political……」とある。つまり、いかなる差別も許容・黙認されてはならない、と禁じている。国家や社会に対して差別の殲滅を厳命しているのだが、この訳文は「差別されない」という状態を表わしている。差別を禁じるのではなく、すでに差別されない状態であるかのような文章なのだ。実際に差別が発覚した場合、原文では国家に対し、その差別を見過ごしてはいけないと命じることになるのだが、「差別されない」と設定されると差別されないはずなので、差別が勘違いに思えてくるのだ。
第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」も然り。草案は「laws shall be designed for the promotion and extension of social welfare……」という具合に、法律の立案にあたっては社会福祉の増進などを考慮しなければいけないと定めている。あくまで立法の指針を規定しているだけで、国民の権利に言及しているわけではない。こう訳してしまうと牧野英一議員が指摘するように、国民が「貧乏で暮す權利を持つて居る」(貴族院 帝国憲法改正案特別委員会 昭和21年9月19日)ことになり、生存権が「貧乏権」にすり替えられてしまうのである。
男女の不平等は憲法誤訳が要因!?
これらは「である」文体というべきなのだろう。「差別されない」「権利を有する」などは「○○である」という状態を表わしている。政治学者の丸山眞男によれば、これは江戸時代から続く身分制の名残り。身分や属性を定めれば、おのずと社会が安定するという発想なのだ。一方、英文草案のほうは「する」文法。○○をする、○○してはいけない、と行動を規制したり許容したりする論理。「差別をしてはいけない」「考慮して立法しなければいけない」という具合に、行動によって社会を形成していくのである。もしかすると日本国憲法は原文の「する」文法を「である」文法に変換したのかもしれない。
婚姻を定めた第24条にも誤訳の疑いが持たれた。同条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として」と夫婦双方の権利の平等を規定しているのだが、その第2項にこうある。
この「本質的平等」は原文では「essential equality」。議員たちはこれを「本質的」ではなく、「原則的」あるいは「人格的」と訳すべきではないかと追及したのだ。なぜなら「女性に於きましては、姙娠と出産及び育兒と云ふ特殊にして重大な使命を持つて居る」(加藤シヅエ議員 衆議院 帝国憲法改正案委員会 昭和21年7月6日)から。男女は本質的に不平等。不平等だからこそ人格的、原則的な平等を目指すべきなのであり、この条文のように男女が本質的に平等であると規定してしまうと、それを前提として社会制度も設計されることになり、本当の平等は実現しない。「平等にする」ということが条文の眼目なのに、「平等である」に変換すると現状維持でよいことになる。平等を訴えながら実は不平等を生み出す誤訳。誤訳というより論理的な誤ちをおかしているのだ。