夜も寝られず庭をさまよい歩く道長

三十講が終わると、彰子は6月14日にいったん内裏に戻ったが、これは異例のことだった。この時代、妊婦は穢れているとされ、内裏に入るのは慎むのが基本だった。直前に亡き皇后定子が命を賭して産んだ媄子びしが死去しており、一条のさみしさを和らげるために道長がとった措置だといわれる。

しかし、出産は実家でするものだったので、彰子は7月9日、ふたたび土御門殿に入るはずだった。ところが、まさに内裏を退出しようとしていたところ、土御門殿には陰陽道で方位の吉凶をつかさどる大将軍が跋扈しているとだれかが指摘し、退出は7月16日に延期になっている。

その後も面倒は発生する。藤原実資の日記『小右記』によれば、8月17日には土御門殿の井戸の上屋が突然倒れ、彰子の御在所内で犬が出産するなどの「怪異」があって、周囲は気が気ではなかったようだ。

そのころの道長の姿を紫式部が書き留めている(『紫式部日記』)。出産が間近に迫って夜も落ち着いて寝られないのか、朝のまだ半ば暗いうちから庭を歩いており、警護の者に鑓水やりみずのゴミを拾わせたりしていたという。ちなみに、『紫式部日記』は道長の命で、彰子の出産の様子を記録するために書きはじめられたと考えられている。

彰子皇后と幼い息子
中宮彰子と幼い息子(写真=「紫式部日記絵巻」/東京国立博物館/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

むしろ妊婦を危険にさらしてしまう

道長が妻の倫子から、彰子の陣痛がはじまったと知らされたのは、『御堂関白記』によれば9月9日の夜のことだった。それを受けて10日の明け方には、彰子は東母屋にもうけられた産所に移った。そして白木の御帳が立てられ、家具も調度も装飾も、それに女房たちの衣装まで、すべて真っ白に統一された。清浄をたもつためだった。

だが、面倒なのは、それから1日経った11日の明け方には、彰子は母屋から退出して北側の廂の間、要は廊下のような場所に移っている。陰陽師によって、この期間は家内を清潔にたもたないと祟りを受けると指摘されたためだった。怪異や呪詛や物の怪を恐れるあまり、むしろ妊婦を危険にさらしてしまうのが、この時代の出産だった。

彰子の陣痛がはじまったときから、道長は物の怪の調伏を本格化させた。ここしばらく法華三十講をはじめ、土御門殿で法要に勤しんできた僧たちのほか、山からはありったけの修験者を集め、加持祈祷の体制を強化するとともに、陰陽師も集められるかぎり集めた。彼らの読経や呪文の声が寝殿を揺るがすほどだったという。

また、公卿たちも続々と駆けつけている。だが、伊周もやってきたのに、道長は会わなかった。実資は『小右記』に「なにか理由があるのか」という趣旨を記しているが、下手に会って呪詛されるのを恐れたのではないだろうか。