妻にとっては寝耳に水だった
坂口さんには、一緒に暮らす妻の久美子さん(仮名)と、社会人2年目で同居する一人息子の涼さん(仮名)がいました。
久美子さんはこの時期、イヤに熱心にパソコンに向かう坂口さんに不信感を抱いていたそうです。他人を疑うことを知らない無防備な坂口さんのスマホを操り、やがてラインのやりとりから夫の野望を知ることになりました。
もちろん、そば店の開業の話は久美子さんにとっては寝耳に水です。一体何を考えているのか、退職金を全部自分の好き勝手に使おうなんてどういうことなのか、素人がそば店を開くなんてなどとかなりの口論になったそうです。
家計を管理していた久美子さんは、退職金を住宅ローンの完済にあてることを考えていました。当初は繰り上げ返済を考えていたようですが、実際には子どもの教育費の工面で手が回らず、家計はギリギリだったようです。
追い詰められた坂口さんは、いよいよ久美子さんにこう言ってしまったそうです。
「俺だって長い間働いてきたんだ。退職金はそのご褒美なんだから、自分が好きに使ってなにが悪い。蓄えだってあるだろう、それでなんとかするのがおまえの役目だ。」
この言葉に切れた久美子さんは、年金は65歳までもらえない、年金だけでは生活できないなどと反論しましたが、聞く耳を持ってもらえなかったそうです。これを機に「離婚」をほのめかすようになりました。
一方、バレてしまったのだからもう良いだろうと開き直った坂口さんは、開業に関わる資料をリビングに広げ毎日眺めては一人悦に浸っていました。
社会人の息子が父親に警告していたこと
そんな両親を横目で見ていた息子の涼さんからも「客でしか行ったことがないのに、経営しようなんて正気とは思えない。そんなの失敗するに決まってる。目を覚ませよ」などと諭されたことがあったそうです。
入社2年目とはいえ、営業の最前線で鍛えられている涼さんの方が、お父さんよりも世の中を見る目はありそうです。そしてなかなかもっともな案も提案していました。
「そば屋の開業って言うけど、実際そば打ちも教室で習っただけなんでしょ。もし本気でそば屋をしたいのなら、定年後は修行をすればいい。アルバイトでもなんでも良いから、そば屋のリアルを経験してみたら」
涼さんからは他にも、自宅通勤をしている間は家にお金を入れることや、母親にパートに出てもらえれば生活はなんとかなること、将来設計はちゃんとプロに相談したほうがいいなどと提案されていたそうです。
とりあえずここで一件落着と思いきや、残念ながら坂口さんは、妻の久美子さんや息子の涼さんの言葉に耳を貸すことはありませんでした。最終的には強行突破でお店を開いてしまったのです。
もしかしたら、昭和の企業戦士でもあった坂口さんにとって、息子からの提言はなかなか受け入れ難いものだったのかも知れません。あるいは父親の威厳を保つためにも引っ込みがつかなかったのかも知れません。