自分は何のために仕事をするのか
日立製作所は2009年、世界金融危機の直撃を受け、09年3月期決算で7873億円の最終赤字を計上した。国内製造業では過去最悪の数字だった。マスコミは連日不振企業の筆頭として報道した。当時、グループ企業の会長職として外に出ていた私に突如、次期社長就任の打診があったのはそんな最中だった。
一晩考え、受けたのは大きく2つの理由からだ。50年近く世話になった日立が未曾有の危機に瀕している。馳せ参じなければならないという思いがまずあった。もう1つは、グループ会社に出ていた経験が逆に生かせると考えたからだ。
外から見たほうが問題点がよくわかる。本体は連結売上高が10兆円前後と巨大だが、グループ企業は大きくても20分の1の規模だ。財布の中身を見ながら戦略を立て即決断できる。本体は戦略の明確さも決断の迅速さも遅れていた。
とるべき施策もある程度見えていた。M&A(合併・買収)で事業を補強するには資金に余裕がない。そこで、上場グループ企業を完全子会社化して取り込み、本体を増強する。その施策を自分が実行するとは想像もしなかった。
社長職とグループ全体を統括する会長職を兼務すると、私が最初に注力したのは、すべての社員の気持ちを揃えることだった。それには自分たちのアイデンティティを明確に打ち出す必要があった。
日立は創業者小平浪平が国産電気機械の量産を目指し、5馬力電動機を製作したところから出発した。創業の原点は社会インフラの事業や技術にある。一時期、「娯楽のソニー、生活の松下(現パナソニック)、インフラの日立」といわれ、「うちはIT(情報技術)も強い」と反発したが、日立の事業の基本は電力や鉄道や水事業などの社会インフラにある。
そこで、ITで高度化された社会インフラの実現を「社会イノベーション」と呼び、「総合電機」から「世界有数の社会イノベーション企業」になることを新たなアイデンティティとして掲げた。
この方向転換を具体的に示すため、ボラタイル(価格変動が大きい)な分野からは距離を置くことも明言した。一例が薄型テレビだ。
「日立はなぜ得意とは思えない分野に注力するのか」と社外から指摘されていた。テレビ事業はその後、海外工場を閉鎖し、電子機器受託製造サービス(EMS)へと切り替えていく。
なぜ、アイデンティティを重視したのか。再生には財政再建も急務であり、赤字事業を分社化するなど、構造改革の方針を決めていた。ただ、財政再建だけでは、社員たちは日立がどこへ向かっているのかわからない。実際、若手から届くメールは、現状への失望が読み取れた。
自分は何のために仕事をするのか。必要なのは未来の道筋を示すことだった。例えば、材料関係の仕事に携わっている社員にとって、いい材料ができれば、いい電池がつくれ、優れた太陽光発電のシステムが生まれる。自分の仕事は社会イノベーションにつながり、下支えしている。その意識を共有し、コンセンサスをとることが何より大切だと私は思った。社内ウェブでグループの全社員36万人に向けて発信し、全世界95カ所の事業所を回り、特に若い30代の課長クラスと語り合った。こうして日立のアイデンティティを明確にすると同時に、事業の収益を改善させる手も打った。それぞれの事業責任者に「ラストマン」の意識を持たせる仕組みを導入したのだ。
日立本体には電力、鉄道、水、情報などの事業が並列に並ぶ。従来は「寄らば大樹」で、ある事業の収益が悪くても大きな財布の中でカバーされ、いわば“どんぶり勘定”の面があった。これを根本から変えるため、各事業部門を疑似会社化し、「○○システム社」と呼んで、独立企業のように経営に責任を持たせた。
各システム社の社長は機関投資家やメディアを集めて説明会を開き、売り上げ目標や事業方針を公約しなければならない。業績に応じて格付けも行い、格付けが高ければ、本体から受ける事業資金の融資も金利面で優遇されるようにした。
従来、最終的な決定は本体の社長に委ねることができたが、システム社では自分が最終意思決定者であり、ラストマンとして判断し決断しなければならない。
「ザ・バック・ストップス・ヒア(The buck stops here.=責任のどんづまり)」という言葉がある。バックはポーカーで親の位置を示す印で、転じて「責任」の意味で使われている。部下は上司にバックを回すことができる。しかし、トップの前でバックは完全に止まる。第二次世界大戦時のアメリカ大統領トルーマンがラストマンの重責を表した言葉だ。
実際、ラストマンになると、意識が大きく変わる。ある小さなグループ会社の社長からこんな話を聞いた。彼は営業出身で本社時代は交際費も期末には全部使い切るものと思っていた。それが社長に転じてからは、トイレットペーパーの値段にも目を配るほどコスト意識が強くなった。赤字が出れば、バックを回す相手はいない。それがラストマンの役割だ。