年寄りなりの楽しみを見つける「老年的超越」という状態

Mさんが亡くなった時にはお通夜に参列しました。参列者は多くはなく、40〜50人の座席に10人程度の人が参列していました。私は職場で訃報を知り、その夜直接会場に行ったため、普段着の派手なセーターを着ていたことを覚えています。どこに座ればよいのかわからず、後方にポツンとひとりで座り、ひたすら昔の交流のことを思い出しながらはなをすすっていたことを覚えています。

私たちは通常、その集団の特徴をつかむために「平均」を取り上げますが、百寿者には「平均的」という表現が当てはまらなくなります。

そのような平均があてはまらない人たちを、自立した日常生活を送れるのかどうかという観点から分類した結果、2割程度の人が自立できているということがわかりました。自立しているかどうかの目安は、目や耳に問題があっても、認知機能がしっかりしていて身のまわりのことを自分でできるかどうか、です。逆の側面から見ると、残りの8割の人は認知機能、身体機能いずれかの問題で誰かの助けを借りないと生活することが難しいということを意味します。

日本人の7割が「100歳まで生きたくない」と回答するが…

ではここで、自分がその8割に該当し、自立して生活できない人に含まれていたと考えてみてください。多くの人が「自分は不幸だ」とか「そのような状態で生きているのは嫌だ」と考えるのではないでしょうか。

昔から「健全な体に健全な精神が宿る」などといわれるように、体の健康度合いと幸福感には強い結びつきがあると考える人も多いでしょう。まさに日本人は7割の人が「100歳まで生きたくない」と回答した理由がそこにあるわけです。しかし、私たちが「主観的幸福感」に関して質問紙を用いて調査したところ、若い人たちと比較してもそう下がっていないという結果が出てきたのです。

具体的には、PGCモラールスケール(The Philadelphia Geriatric Center Morale scele)による調査で幸福感を測定します。これは、フィラデルフィア高齢者センターのロートン博士が作った高齢者向けの「幸福感を測定するための質問票」です。ロートン博士は高齢者心理研究のパイオニア的な存在で、以前から「幸福感は物理的な環境とは必ずしも一致せず、自分の主観的な体験であること」を主張してきました。昔はやった「いっぽんどっこの唄」にある、「ぼろは着ててもこころは錦」のように、どうあるかよりもどう感じているかが大事だと考えたわけです。