初版はたったの500部

映画化・舞台化・テーマパーク化で記録尽くしのハリー・ポッターも、その“生まれ”はごく慎ましやかな「一冊の小説」に過ぎない。

母の死・長女出産・離婚など困難を経て、無職のシングルマザーだったJ.K.ローリングが1995年、30歳の時に書き上げたのが本作だ。何度も出版を拒否されながら、英国出版社Bloomsburyから1997年6月に発売されたのが『ハリー・ポッターと賢者の石』、初刷はたったの500部。まさかこれが後に1億2000万部を売る伝説の第1巻になるとは、誰もが予想しなかったことだろう。

そのポテンシャルに目を付けた米国の児童書・教育所の出版大手SCHOLASTICが10万ドルという超高額の出版権オファーを出したころから、潮目が変わってくる。

1年後の1998年9月に出された米国版は、初版5万部。1999年の3作目『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』ともなると、英国で初版20万部、米国で初版50万部となり、このころにはもうローリングが受け取る印税は百万ドル(億円)を超える規模になっていた。

英米で話題になっていると聞きつけて、日本語版を出版したのはなんと当時“社員1名”の静山社。

夫の会社を継いでイギリスの知人の家で本作を紹介されて一気に虜になった松岡佑子氏が、直接J・K・ローリングの代理人に電話をいれた。3社もの出版社が申し入れをするなか、思いを込めた手紙を直接送った結果、ローリング本人が選んだのが松岡氏であった。

ハリー・ポッターの本
写真=iStock.com/Alena Kravchenko
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映画化で世界的コンテンツに

後日その理由を「代理人から、(松岡)佑子が最も情熱的な出版人だったと聞いた。人生において、情熱ほど重要なものはないと思う」(ORICON NEWS 2022年3月4日配信)

まさに窮鼠の一矢で小説を描きあげ、自らの情熱だけで映画化まで推進してきたローリングだからこそ、そのパートナー選びもブランドや企業サイズではなく「情熱」を基準にあげたのだろう。

日本語版で1作目が出たのは、2年6カ月遅れの1999年12月。初版3万部は瞬く間に完売し、1カ月で25万部。「児童書」でいうとほかに追随を許さないベストセラーとなった。

「賢者の石」は日本で500万部を超える大ベストセラーとなった。

1997年~2000年の間に「数百万部」を売り上げていたファンタジー小説が、「数億部」という書籍史上有数のギネス記録に、そして全世界を巻き込むIPブランドになったのは、アメリカ・ハリウッド映像の力だろう。

著者のローリングは出版社任せにせず、1999年に4作品の映画化権をワーナーブラザーズに1億6000万ドル(約170億円)で直接売却している。

ベストセラーは映画化して売れる、というのは今でこそ当たり前のように聞こえるが、決してそうではない。小説で好むものが必ずしも映像化に適しているわけではない。