小倉昌男『小倉昌男 経営学』(日経BP)

小倉昌男 Masao Ogura

1924年、東京都生まれ。47年東京大学経済学部卒業。48年、大和運輸(現ヤマト運輸)に入社。71年創業者の父の跡を継ぎ社長に就任。76年商業貨物から撤退し宅急便事業を起こす。87年会長に就任。91年取締役相談役に就くが会社に危機感を覚え、93年会長に復帰。同年ヤマト福祉財団を設立。95年再び会長を退く。2005年6月、腎不全のため米国ロサンゼルスにて死去、享年80歳。

宅急便は、1976年にスタートした。それまで、家庭から小荷物を送るのは、郵便小包しか方法はなかった。宅急便はそこに殴り込みをかけたのである。

その無謀な挑戦は、誰もが失敗すると考えていた。しかし宅急便は80年代初頭には採算点を超え、利益を計上。多くの企業が参入する成功事業に成長していくのである。

ヤマト運輸の前身、大和運輸は、1919年に東京・京橋区(現・銀座3丁目)で、小倉康臣によって創業された。鮮魚の輸送や三越との市内配送の契約などで急速に成長し、一大トラック運送会社となった。関東大震災の復興の輸送需要も成長に拍車をかけた。

1924年12月13日、康臣の次男として誕生した昌男は、東京大学経済学部を卒業後、終戦から間もない48年に大和運輸に入社する。しかし、終戦から10年間でトラック運送事業に大きな変化が訪れていた。西濃運輸や日本運送などの大手路線会社が台頭し、ヤマト運輸は長距離輸送の分野で出遅れてしまうのだ。終戦後、長距離輸送の主役は鉄道からトラックに変わりつつあった。

ところが、ヤマト運輸は関東一円のローカル路線に閉じこもっていた。社長の康臣は、長距離輸送は鉄道の分野だと固く信じており、昌男たち若手が長距離輸送への進出を何度懇願しても許さなかった。

大阪支店が営業を開始したのは、同業者に遅れること約5年、1960年のことである。康臣は優れた経営者だが、経営者の過去の成功体験が、時代が変わり新しい仕事を始めることの妨げになっていた。

待望の東海道路線に進出したものの、運ぶべき貨物が集まらない。営業トップを任されていた昌男は、大量輸送を見込める大口荷主と契約する顧客獲得に力を入れており、手間がかかりコストが割高だと思われた小口貨物を断るよう営業現場で指導していた。

しかし、この戦略は間違いだった。大阪を訪れた昌男が目にしたのは、大口も運ぶが、その陰で小口貨物を大量に運ぶ大手ライバル会社の姿だった。急遽、ヤマト運輸も小口貨物に対応し始めたが、後の祭りだった。