宇宙を移動する天体の軌道は円軌道の組み合わせ

しかし、その後附属学校が閉鎖されたため、新たな職を求めます。当時、ケプラーはガリレオのほか、デンマークの貴族で天文学者のティコ・ブラーエとも文通を通して交流をしていました。そこで、ティコ・ブラーエを訪ねるため、プラハに向かいます。

当時29歳だったケプラーは、当時53歳のティコ・ブラーエの助手となり、火星の研究を手伝いました。ティコ・ブラーエはすでに、火星を16年にわたり精密に観測しており、大量の観測データが残されていました。

ところが、ティコ・ブラーエは、ケプラーとの出会いから2年も経たないうちに亡くなってしまいます。ケプラーは、ティコ・ブラーエの後継者として、皇帝つき数学者に任命されると同時に、大量で貴重な観測記録も引き継ぐこととなりました。

実は、火星は、軌道の予測が非常に難しい惑星でした。古代ギリシャの数学者で哲学者のピタゴラスの登場以来、宇宙は「完全なる調和」の象徴とされ、「宇宙を移動する天体の軌道は円軌道の組み合わせである」と固く信じられてきました。

このため、天動説の時代はもとより、コペルニクスが唱えた地動説においても、惑星の軌道は“円”だと考えられていました。

太陽系の惑星の軌道
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「惑星の軌道は円ではなく、楕円である」

ところが、惑星の軌道が円だとすると、地動説による予測結果と観測結果が完全には一致しなかったのです。地動説が広く受け入れられなかった理由の1つも、そこにありました。古代ローマのプトレマイオスがまとめ上げた天動説に関する「プトレマイオスの理論」があります。

プトレマイオスの理論とは、地球から見たときに、天体がどのように動くかを理論的にまとめたものです。それは非常に複雑かつ複数の規則を必要とするものでしたが、天体の運動を当時の水準で正確に予測できるものでした。

コペルニクスの主張が受け入れられなかったのは、プトレマイオスの理論のほうが、コペルニクスの地動説に関する理論よりも、観測結果と予測結果が合致する精度が高かったからなのです。

当時は、航海のために天体の位置を使っていたため、天体の運動を高い精度で予測することは、非常に重要でした。

現在では、「コペルニクスが地動説を唱えたが、当時の世界観と矛盾するため誰も信じなかった」と言われていますが、実際には、それほど単純な話ではなかったのですね。

一方、ケプラーは、ティコ・ブラーエが残した火星に関する膨大な量の観測記録を丹念に調べていました。そして、ケプラーは、重大な結論にたどり着きます。

それは、「惑星の軌道は円ではなく、楕円である」というものでした。これを「ケプラーの第1法則」といいます。ケプラーは全部で3つの法則を発見しますが、その第1の法則です。