明治時代から14回もの水害が起きている
発災半年後の2018年12月末時点で、真備町世帯の約3分の1が、真備地区外のみなし仮設住宅に暮らしていました。
しかし、ライフラインが復旧すれば、すぐに自宅に戻れるわけではありません。まず、自宅の被害程度について、全壊、大規模半壊、半壊の認定を受け、自治体にり災証明書を発行してもらいます。自宅に戻るかどうかの意思決定は、修理を行えば居住することが可能なのかなどの損壊程度の問題だけで決められるものではなく、水災補償特約付きの火災保険に加入していたかどうかも大いに関係しています。
そして被災しても住宅ローンの返済負担は残り続けますから、残債有無も判断に影響します。新たに住宅を建築する必要があっても、高齢のため、住宅ローンが組めないケースもあります。
我が家の場合、両親の住む実家と私の賃貸の2軒が全壊し、家財のほとんどと車を失いました。災害後、ここは明治以来14回も水害が起きた地域だと初めて知りました。片付けが進み、住み家をどうしようか考え始めたとき、私も息子も真備町に戻って生活するリスクを心配しました。
「死んでもええから、帰らせてくれ」と言う理由
そこで、私は両親に、「ここはまた水が来る。もう水が来る心配のない、安全な地域に引っ越したほうがいい」と親戚の家の近所に中古住宅を探すことを提案しました。しかし、80代の両親は「もう、あと生きて10年じゃ。死んでもええけえ、川辺にかえらせてくれ」と口を揃えて訴えるのです。
その強い願望に根負けしました。古民家再生を手掛ける地元の工務店に家屋を調査していただき、築45年の実家をリフォームし、真備町に戻ることにしました。そして私が1人で暮らしていたアパートは引き払い、私は再び実家で暮らすことになったのです。
東日本大震災では、津波で壊滅的な被害を受け、6年も7年も経って高台の復興住宅に集団移転した集落もありました。そのニュースを観て私は「地震で被害が大きかったところになぜわざわざ戻ってくるのだろう」と疑問に思っていました。
我が家のケースでいうと、真備町は両親の生まれ故郷ではありません。なのに、なぜ両親は真備町に執着するのでしょう。両親との会話の端々でみえてきたのは、生活の匂いというか、土臭さや近所付き合いです。
母は川辺のお友達との暮らしを懐かしがり、戻れないことに苦しんでいました。何年も掛けて樹木を増やし、季節の花を愛でていました。庭の梅で梅干しを作り、庭の山椒で筍を和えて食べ、味噌やぽん酢、漬物を作っていた母。お裾分けをするご近所付き合いがあり、農家さんからお野菜をいただくこともある土地柄です。